ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

二人称

明日になれば くだらぬことも

いまのぼくにとっては、ひどく つらく思えたりで

あなたの中にある清らかな心も

たまには ぼくみたいなことを思うでしょうか

いま、ここにあるすべては 涙の雨がさらっていった

あなたにはもうあえないけれど

いつまでも ここで待っている


回遊魚の原風景/南壽あさ子

 

過去がどうとか未来がどうとかではなくて、今に対して嘆かざるを得なかったその言葉を見失わないようにしたいし、やはりその人なりの真剣に生きている世界はその人だけのものだ。

君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる

いい言葉だなと印象に残る基準として一つ考えられるのが、「逆」なことである。

 

前にスピッツの「8823」について書いた時も「君を不幸にできるのは宇宙でただ一人だけ」というフレーズの破壊力を紹介した。「普通」なら幸福とか幸せとか書くところを不幸って言い切ってしまう。あえて逆に書くことで、我々の常識からはみ出た余剰部分に想いを馳せざるを得ない。「幸せ」と書いてくれればすんなりと受け入れられるところを、この歌詞はそうさせてくれない。そのようなはみ出た部分の多さが言語表現の豊かさに結びつくのだと思う。

 

あえて逆を言うことでより切なさを際立たせるプロといえばback numberだ。「幸せ」というタイトルでありながらその歌詞の内容は、自分の好きな人には別の好きな人がいて、自分は彼の相談相手になっているというもので、「その人より私の方が先に好きになったのにな」と言っている。全然幸せな内容じゃない。

「最初からあなたの幸せしか願っていないから」というフレーズが歌詞の中に出てくるが、作詞した清水依与吏が「これは嘘である」と断言している。相手の幸せしか願っていないと清々しく言い切ることで、逆にその裏に込められた想いが熱量を持って我々に迫ってくる。好きになった人にはちょっとだけ不幸になってほしいと思う人の方が、私は仲良くなれる気がする。その是非はともかくとして。

back numberはこの他にも失恋の曲に「ハッピーエンド」と名付ける程の容赦のなさを持っている。もう少し素直になってもいいと思うぞ。

 

「忘れてほしい」と言うのは全然忘れて欲しくないからだろうし、「幸せです」を過度に主張してくる人は不安でいっぱい。素直になれない人は、基本的に逆の言葉しか言えないのである。

 

言葉の隙間からはみ出した余剰部分こそが本音であるという認識に基づけば、テキストメッセージを表面通りに受け取っていたら見えなくなるものも、おそらく沢山あるのだろう。

できれば、もらった言葉をそのままに解釈することが許されている方が、無駄に精神的リソースを割く必要もないし、誰かの呟きに被害妄想的に傷つく必要もなくなる。

言葉は意思の伝達手段でありながら、どれだけ時代を経ても不完全なもののままであるし、むしろどんどん不便さが加速している。

おそらく、そういった言葉の不便さを愛しているのが詩人だし、不完全なツールを尽くして読者を自身の世界に誘うのが物書きである。本当は根っこに相当鋭利なものを抱えていながら、人に向けてよそ行きの形に梱包したものが「文章」だ。私だって、文章を書くには何らかのきっかけが不可欠だ。

 

「逆」を言う、というのは不完全な言葉の使い方の一つの終着点なのかもしれない。対象の魅力を、相手への好意を言語化しようとすればするほど、手持ちの言葉の少なさという壁にぶち当たる。だから逆を言うことで、対象を描き切る方針から、余剰部分を作り出して解釈の余地を広げる方針に転換する。これは一つの発明であり、不便を愛した詩人たちの大きな功績だ。

 

詩人には説明責任が課されていない。不完全さを一つの意匠として用いることができる。

それはきっと、世界中に存在する小さな詩人ーー自分の身の回りの出来事に心を揺さぶられ、不完全な言葉でしか感情を表現できない状態にあるすべての人--も同様である。

説明責任から逃れた言葉を、人はしばしば「ポエム」と嘲笑する。でも、そういったポエムを吐かざるを得ない小さな詩人たちの本当の訴えに耳を傾けようとはしない。言葉は不完全なまま宙に浮かんでいる。

 

彼らの世界の中で吐き出さざるを得ない言葉を、もっと日常の詩歌化という形で迎えられるようにしたい。

やり過ごされた31×4

一番にとっていたわたしの席 窓ぎわの左端

あなたを見ていた 頬杖つきながら

風のように時間は過ぎていった

 

あなたから呼ばれることが

それだけで、こんなにうれしい

なぜかしら

 

ねえ、そんな季節があってもよかったと

今はそう思えるの

きらきら 揺れる

 

ああ やり過ごされた時間たちよ

いつまでも 美しいままでいて

今日の日を愛せるように

 

きらきら ゆれていた きせつ

 

「やり過ごされた時間たち」南壽あさ子

 

私より小さくなったあなたには 花びらさえも雨粒の音

もくもくとひこうき雲に紛れこむあなた 最後の茶目っ気は灰

空白になりきれなかった空間を愛と呼べたらどんなに楽か

朝方の通勤列車をかき混ぜた匂いをもった昼の葬列

 

今日だけは、つらつらと書くよりもじっくりと想いを馳せるのだろう

例外

こんなに穏やかな時間を

あなたと過ごすのは

何年振りでしょうか

 

落とさぬように抱いた

小さくなったあなたの体

 

真に分け隔てなく

誰しもが

変わらぬ法則によります

急がずとも必ず

 

全てが例外なく

図らず図らず

今にも終わります

波が反っては消える

 

宇多田ヒカル「夕凪」

 

それでも自分の中ではあまりにも例外だった出来事から一年が経つ。当たり前に続くと思っていた日々は全く当たり前ではなく、自分よりも小さくなった体を抱いて、呆然と6月の空気の中に佇んでいた。

あの出来事から、人生のBPMを意図的に落としている。先を見据えて動き出している人たちを見ると、彼らが当然前提としていることが私にはない、という事実ばかりが突きつけられる。

考えることが増えた。突然何のやる気もしなくなることも増えた。知らないよそんなこと、と思いながらも、のらりくらりとやっていくのに長けていた私は、あまり喪失感を表面には出さずに過ごすことが出来ていたと思う。

あれは事故だったけど、生前は社長に殺されていたも同然だ。精神的に衰弱している様を見て、誰が社会で働きたいと思うだろうか。

そうは言っても、将来を決めていかなければならない岐路に立たされて、弱っていることが許されない時が来てしまった。本当はもっとゆっくりと色々なことを考えていたかった。それでも、とりあえず生き延びるためには、上手にまともなフリをし続けなければならない。

酒の飲み過ぎも死因の一つだ。だから絶対に呑んだくれにはならないと決めていた。なのに、酒を飲んで失ってしまった何かや、ごまかし続けてきたことを思うと、自分の浅ましさが嫌になってくる。

自己肯定感は内省的であるかどうかに左右される。大好きな誰かのために時間を費やしている時は考えなくてもいいことを、どうでもいいことに時間を割かなければならないときや、ひとりでいるときに考えてしまう。そういうときはどんどんと自己肯定感が沈殿していく。

だから、何もしないようにはしないようにしてるのかもしれない。きっと、順応的な社会人のフリをして生きていくのだろう。それでも、心の中では忘れたくないことを、時折真っ白な紙に傷をつけるように文章を書いていく。

今後の人生は、うれしい例外ばかりが続いてほしいなと思っている。それは天国に旅立った人に対しても同じ。

全てが例外なく終わる生命も、関係も、愛おしくあれ。

それでも真面目で居続ける5月病患者へ

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僕は筋金入りの真面目な人間である。

「僕は○○○である」の空欄に迷わず「真面目」の三文字を書き入れるだろう。

大学の講義をサボったことはない。病欠か忌引で休んだ以外は全ての講義に出席している。割と教員の要求していることに対応するのが得意だから、課題もそれなりにこなすことができて、成績も満足できるものである。通学時間も結構かかる方だ。授業そのものの時間よりも電車に乗っている時間の方が長いという時もある。それでも毎日通っている。

 

別に自分が偉いと言う気はさらさらない。僕は好き好んでこういう大学の使い方を選んでいるだけであり、極限までサボって要領よく単位を取っていくやり方も大いにアリだと思っている。自分は割と学ぶことが好きだし、講義を妨害してくるような人もいないし、講義に行きたくない人は勝手にいなくなってくれるので、僕が迷惑を被ることもないからだ。

だけど、こういう真面目な人間が損を被るようなことはあってはならないと思う場面が最近多い。

真面目な性格はうつ病に繋がりやすいと言われる。人からの依頼が断れなくて、自分の主張を通すのが苦手で、臨機応変とか柔軟な対応とかが苦手で、オンオフをうまくつけられなくて、失敗を全て自分のせいにしてしまう。

悲しいけれど、真面目な人間は損する役回りを押し付けられることが多い。その結果、過労による自死とか精神疾患とか、犯罪に至ってしまうケースは何度も見られている。インタビューされた関係者は判で押したように同じセリフ。「真面目な人だったんですが…」

 

僕も大学1年の頃、ある講義のやり方がどうしても自分に合わなくてサボりを検討したことが何回もある(結局全部の回に行ったのだが)。世間の人はサボることについてどう思っているのだろうとネット検索してみた。いかんせんサボった経験がないから集合知に頼らざるを得なかった。「大学生が講義をサボってもいい理由」というタイトルのブログ記事などがヒットした。そういった記事の結論は大体、「大学生は自分で使える時間が一番長いのだから、バイトや遊びや自分のしたい勉強、スキルアップに時間を割くべきである、授業を切った分無駄になったと思われる学費はそのために払ってもらってると思えばいい」みたいなものである。なるほどねーと思いつつ、自分は自分のために時間を使うセンスがあまりないような気がして、結局講義には出た。

時は過ぎて、だんだんと自分の世界が広がり始めて、「大学に行くよりもやりたいことがある。自分の人生は自分で切り拓こうと思う」という人も現れて、同じ大学生でも、取る行動がどんどん多様化し始めていることに気付いた。敷かれたレールの上を走るのを見下す人のことは大嫌いだったけど、敷かれたレールからはみ出る決断をした人は純粋にすごいなと思った。僕にはそのセンスがないから。

 

そして、いよいよ進路の方針を固めていこう、という時期に突入した。ここに来て僕は、「5月病」にかかりそうだった。

今が5月だからという理由だけではない。大学3年にしてようやく僕は、今まで積み重ねてきた自分の真面目さのストックをどう取り崩していけばいいのか、真面目さとサボりの狭間で、葛藤に苛まれることになった。新学期が始まって、快活な人間のフリをして順調にこなしてきたことが出来なくなる5月病に、3年目にして罹患してしまいそうだった。

昨今は、自分の経験から得た情報をウリにしたビジネスが飛び交っている。だから、「どれだけ他の人にはないものを持っているか」で競われるように錯覚してしまう。僕を含め真面目な人間は、「そんな経験なんてしてないよ」と尻込んでしまう。実際に僕から見たら色々な資格を持っているようなすごい人でも、同じような悩みを抱いているように見えた。

 

話は飛ぶが、僕の好きな作家、朝井リョウが最新作『死にがいを求めて生きているの』を発売した時のインタビューの一節が強く印象に残っている。朝井リョウは、競争がなくなって絶対評価に移った平成という時代についてこう語っている。

「対立をなくそう」も「自分らしく」も、考え方はもちろん素晴らしいけれど、同時に、対立がなければ自分の存在を感じられない人の存在が炙り出される。自分らしさとは何か、自分とは何かということを自ら考え続けなければならないことによって、新しい地獄みたいなものも生まれる。

(出典:  https://www.google.co.jp/amp/s/www.buzzfeed.com/amphtml/yuikashima/ryo-asai

「人とは違う」ことを「経験」として売り出していく風潮が広まり、どれだけ他人と違う生活を自分らしく過ごせたかということに焦点が当たっている。自分と他人の違い・対立を常に意識しなければならないことの地獄。誰かが採点基準を与えてくれるわけではないから、自分らしさは自分で作らないといけない。

レアな体験、人とは違う経験をSNSで常に投稿していないと焦ってしまう。そういった人のことも朝井リョウは容赦なく描いている。

問題は、こういった「自分らしさ」の判断基準や物差しが、講義をサボることで手に入れられるこうした「経験」と非常に親和性が高いことだと思う。

そして、真面目な人にとっては、自分を測る物差しを自分で作り出さないといけないという風潮に、非常に翻弄されてしまうのだと思う。講義に出ることは大学生として当たり前だと思っていたのに、それだと自分らしくなくない?と世間の風潮から横槍を入れられてしまう。

 

一見、過労自死してしまうくらいに物事を押し付けられることと、自分らしさを自分で決めていこうと言われることは正反対であるように見える。しかし、人から頼まれたことをこなすのが得意な真面目な人にとっては、この正反対の風潮はどちらも自分を蝕んでいくものに映るのだ。前者は身体的にも追い詰め、後者は自分を見失わせて不安にさせる。

じわじわと、進路という自分らしさの道を自分で決めようという空気感が襲ってきている。真面目な人はこうした空気感によって不安に苛まれて、本当はとても輝かしくて評価されるべき勤勉性や協調性も、「自分らしさ」を失わせる欠点として唾棄しかねない。

 

だけれども本来、そういった人のことを考えられる真面目さも、日々を安定して過ごしていくことも、大きく賞賛されるべきことであり、まぎれもない自分らしさなのである。忘れてはいけないし忘れたくない。

本当はやりたくないことも含まれている大学の課題を同時並行で進めてきちんと平均点以上の成果を出せる人も、他人から頼まれたことをできるだけ請け負ってこなせるサークルの一員も、コンスタントに講義に出続けられる人も、どれもれっきとした自分らしさを持っているということ。

こうした真面目さは、「偉い」という他人からの評価よりも先に、輝かしいその人らしさを表したものだということを、忘れたくない。

 

「真面目」という言葉が侮蔑的なニュアンスで使われることがある。「頭が硬い」とか「主体性がない」とか、そういった文脈で一緒に登場させられることがある。

こういった風潮に断固としてNoを突きつけるために、僕は積極的に「真面目」という言葉を肯定的に使い続けるし、これからも真面目を貫いていけたらいいと思っている。

そして、真面目でいることに少し疲れ、5月病になってしまいそうなときは、せめて自分が今まで貫いてきたその姿勢の尊さや輝かしさを思い出してから、もう少し頑張るなり休むなりすればいい。

大丈夫、少しくらい真面目でなくなっても、世界はちゃんと回っていくように出来ているし、自分が思っているよりも自分は真面目だから。自分ではまだまだだと思っていることも、他人から見たら完璧に見えることもあるから。今が不安だったら、かつて真面目でいられた自分に思い切り拍手!自分でするのが恥ずかしかったら、とりあえず大切な人と遊びに行こう。

真面目でいる/いたい人には、サボった人が楽しんだ分と同じくらいの笑顔があればいいのになと思っている。

 

ここで書いてきたことは綺麗事かもしれないけれど、僕に出来ることは綺麗事を書くことだけだ。どんな爆破も容認される舞台装置をこしらえることが僕の趣味だ。真面目な人のオフモードの瞬間にふと拾われる、爆破可能な舞台への招待状を僕は書き続ける。これからも一緒に爆発しながら、なんだかんだで夏を迎えましょう。

鶏肉が何の肉か分からない人を吊るし上げることについて

テレビ番組は滅多に見ることはない。それでもぼんやり見ている時にノイズが入ってくることがある。最近始まったテレビ番組で、「昭和世代が平成生まれの若者たちに“知っていて当たり前の常識”をクイズにして出題していく、世代を超えて驚きと気付きがある新基軸の世代間クイズバラエティ番組」という趣旨の番組がある。

まず「常識」という言葉が苦手である。価値観の押し付けであることこの上ないから生理的に苦手なのもあるし、この言葉は頻繁に自分の知識量でマウントを取る時に用いられがちなので、もともと注意が必要な言葉だと思う。マウントを取る人が使う「常識」は「自分の守備範囲」であるに過ぎない。

そして、世代を一括りにしている点でもバリバリ苦手である。生まれた時代が少し違うだけでその人の優劣など変わるわけがない。大きい主語やレッテル貼りは分かりやすいし笑えるときもある。ただ圧倒的に笑えないことの方が多いので、あまり好きな手法ではない。

ゴリゴリにノイジーな番組が新しい元号になった時代にも放映されていることに軽く絶望しながら、Twitterを流し見していたら一つの記事が目に入った。

(出典:哲学者ソクラテスが説いた「無知の知」米大学の科学的研究で証明 - ライブドアニュース

この記事で書かれていることは、「知的謙遜」についてである。知識が多い人ほど、自分の知識には限界があるということを冷静にかつオープンに受け止めている傾向にあるということが実験で示された。要はソクラテスの説いた「無知の知」が研究によって証明されたという内容だ。

元となった研究を参照できてはいないのであまり大それた解釈はしたくないが、この記事で書かれたいくつかの文がとても印象的だったので書き残しておきたい。

「知的謙虚と一般知識の多さの間につながりがあることは、知的謙虚が『人の一般知識の多さを正確に測る能力』と関係しているという研究結果によって説明がつきます。つまり、自分が知らないことを知ること(そして『知らない』と進んで認めること!)は新しい知識への第一歩なのです」

自分の知識の守備範囲は限られていると積極的に受け止めることで、他の人が得意としている範囲の知識にも進んでアクセスすることが出来るということだろう。どうしても自分の得意不得意はあるし、自分と自分以外の全員を比べたら、当たり前に多種多様の守備範囲を持つ他人の方が知識が多く見える。知的謙遜の人はそのことをしっかりと受け止めているのである。

この記事では、知的謙遜の人は「間違いの指摘や他人のアイデアを認めやすい」と書かれている。同じように解釈すれば、知的謙遜の人は他人に対して自分の知識量で攻撃する必要性を感じないということだろう。

長く生きていればそれだけ、たくさんの勉強をしていればそれだけ、自分の手持ちの知識は増える。それでも知識に限りはない。その事実に対して上手く向き合えず、自分の守備範囲だけを武器に誰かを攻撃する方針にシフトするのは勿体ない。

私の「老い」の定義は、「新しい価値観を受け入れるのをやめてしまうこと」である。スマホを使いこなすお年寄りの人がカッコよく見えるのは、「老いていない」からだと思っている。自分の知識を超えた場所に積極的に関わろうとしているその姿勢がカッコいいのだと思う。

知識の継承とは、決して知らない人を吊るし上げるやり方では達成されない。もちろんバラエティ番組なので、吊るし上げられることが「美味しい」こともあるのだろうから、このことに関して噛み付く必要もないのかもしれない。どこまでが本気の回答なのかもこちらが計り知る余地はない。だが、問題はこのような番組を見た人々が「知的謙遜」から遠ざかってしまうことである。

知的謙遜から遠ざかってしまう要因は、何も個人の考え方の問題だけではない。世の中の風潮が加担している面もある。記事ではそのことについても書かれている。

「人は偏見のない人を受け入れやすい傾向にありますが、一方で自分の信念を確信しない人を『弱い』と考えたり、すぐに考え方を変える人を『操作的』『安定していない』と考えることがある可能性もあります」「このような社会における人の見方が、人に自分の間違いを認めづらくしているかもしれません。『自分の考えには自信を持つべき』と考える人は、考えを変えることを恐れるかもしれません」とマンカソ氏は語っており、知的謙虚の理解を深めることが、社会における人のあり方に影響を及ぼすと考えています。

「軸がブレている」ことを恐れる風潮が、知的謙遜(謙虚)への第一歩である「自分の考えを変える」ことへの忌避に繋がるのだろう。

いわゆる「一貫性の原理」が人々の心理にもたらす影響は大きい。好きな雑誌や歌手のCDは、さほど好きでなくなってきても何となく買い続けてしまうというのがその例だ。誰が見ているわけでもないのに、人は自分の中の一貫性を保ちたがる傾向にあるらしい。

「自分の軸を明確にしろ」という言葉は特に就職活動などの世界で飛び交っている。確かにある程度自分の好きなもの、譲れないものを明らかにした方が、就活の指針を立てやすい。

どうしても自分の軸を固めることを是とする風潮が、自分の考え方の軌道修正を拒んでいる面があるのではないかと思う。

そして、自分の軸(≒価値観)にそぐわない人を括り出して攻撃することで自分の軸を保つ行為が、その人を知的謙遜からさらに遠ざからせるのだろう。

 

偉そうに書いてきたが、このことは私の課題でもある。人に知識量で攻撃はしないようにしているつもりだが、自分の知識量を冷静に見つめることはできても、オープンにすることへの抵抗は依然としてある。「こんなことも知らないの」と言われるのが怖いから、あまり人に質問が出来ない。まずは自分で調べようとする。

塾講師のバイトをしていて思うのは、「質問されて嫌になることなどない」ということである。質問したいことをまとめて聞いてくれる生徒に対しては私もどんどん教えたくなる。このことを実感しているのに、当の自分は相変わらず質問下手である。

もうこれは私の性格なのだと割り切ってしまってもいいのかもしれない。ただ現状、人に対して分からないことはちゃんと分からないと言った方が後々になってスムーズになると実感した場面は数多くあるので、知的謙遜かつオープンに貪欲に知識を取り込む姿勢を失わないようにしたい。

私の大の敵である知識マウントが無くなるように、このようなテレビ番組がナンセンスだという認識が広まればいいなと思っている。要は私の個人的な被害妄想による批判である。

件の番組に対する感想の一つに「平成生まれとされている人たちの考え方が分かって興味深い面もある」というものがあった。こういったフラットな見方が出来る視聴者ばかりであれば、この番組もそこまで問題にはならないのかもしれないが。

本当に「平成生まれ」は「令和生まれ」をバカにしたくはないものだが、この若者叩きというお家芸は遥か昔からあるらしいから絶望的かな。

5月の風

たとえば君が歌ったそのメロディーが

音のシャワーを浴びるように心地がいいから

僕は一つ一つ色をつけてゆきたい

いつ見返しても笑えるように

 


少し早足で歩いた夏を急かすよう

ひどく遠回りしながら近道する季節

ほらね一つ二つ足を踏み出しながら

週末の魔法ばかり考える

 


陽の当たるリビングルーム

うたたねしながら

思いだしたのは小さな赤い頬ばかり

今日は晴れてるよ、って

小さく微笑んで

隣に舞い込んだ

幼気な5月の風

 


だからさ君がくれたんだその毎日は

何気ない言葉は甘いドーナツとシロップ

僕は一喜一憂バカらしく思えちゃう

早くコーヒー飲んで出かけなきゃ

 


木漏れ日のシャンデリア

スキップしながら

思いだしたのはしなやかな黒い髪ばかり

おかえりなさい、なんて

最高の微笑みで

待っていてくれたらな

抱きしめた5月の風

 


日常のときめきは

切なく楽しいのだ

思いだしたのは桃色の潤いばかり

今日も晴れてるよ、って

小さく微笑んで

隣に舞い込んだ

大好きな5月の風