ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる

いい言葉だなと印象に残る基準として一つ考えられるのが、「逆」なことである。

 

前にスピッツの「8823」について書いた時も「君を不幸にできるのは宇宙でただ一人だけ」というフレーズの破壊力を紹介した。「普通」なら幸福とか幸せとか書くところを不幸って言い切ってしまう。あえて逆に書くことで、我々の常識からはみ出た余剰部分に想いを馳せざるを得ない。「幸せ」と書いてくれればすんなりと受け入れられるところを、この歌詞はそうさせてくれない。そのようなはみ出た部分の多さが言語表現の豊かさに結びつくのだと思う。

 

あえて逆を言うことでより切なさを際立たせるプロといえばback numberだ。「幸せ」というタイトルでありながらその歌詞の内容は、自分の好きな人には別の好きな人がいて、自分は彼の相談相手になっているというもので、「その人より私の方が先に好きになったのにな」と言っている。全然幸せな内容じゃない。

「最初からあなたの幸せしか願っていないから」というフレーズが歌詞の中に出てくるが、作詞した清水依与吏が「これは嘘である」と断言している。相手の幸せしか願っていないと清々しく言い切ることで、逆にその裏に込められた想いが熱量を持って我々に迫ってくる。好きになった人にはちょっとだけ不幸になってほしいと思う人の方が、私は仲良くなれる気がする。その是非はともかくとして。

back numberはこの他にも失恋の曲に「ハッピーエンド」と名付ける程の容赦のなさを持っている。もう少し素直になってもいいと思うぞ。

 

「忘れてほしい」と言うのは全然忘れて欲しくないからだろうし、「幸せです」を過度に主張してくる人は不安でいっぱい。素直になれない人は、基本的に逆の言葉しか言えないのである。

 

言葉の隙間からはみ出した余剰部分こそが本音であるという認識に基づけば、テキストメッセージを表面通りに受け取っていたら見えなくなるものも、おそらく沢山あるのだろう。

できれば、もらった言葉をそのままに解釈することが許されている方が、無駄に精神的リソースを割く必要もないし、誰かの呟きに被害妄想的に傷つく必要もなくなる。

言葉は意思の伝達手段でありながら、どれだけ時代を経ても不完全なもののままであるし、むしろどんどん不便さが加速している。

おそらく、そういった言葉の不便さを愛しているのが詩人だし、不完全なツールを尽くして読者を自身の世界に誘うのが物書きである。本当は根っこに相当鋭利なものを抱えていながら、人に向けてよそ行きの形に梱包したものが「文章」だ。私だって、文章を書くには何らかのきっかけが不可欠だ。

 

「逆」を言う、というのは不完全な言葉の使い方の一つの終着点なのかもしれない。対象の魅力を、相手への好意を言語化しようとすればするほど、手持ちの言葉の少なさという壁にぶち当たる。だから逆を言うことで、対象を描き切る方針から、余剰部分を作り出して解釈の余地を広げる方針に転換する。これは一つの発明であり、不便を愛した詩人たちの大きな功績だ。

 

詩人には説明責任が課されていない。不完全さを一つの意匠として用いることができる。

それはきっと、世界中に存在する小さな詩人ーー自分の身の回りの出来事に心を揺さぶられ、不完全な言葉でしか感情を表現できない状態にあるすべての人--も同様である。

説明責任から逃れた言葉を、人はしばしば「ポエム」と嘲笑する。でも、そういったポエムを吐かざるを得ない小さな詩人たちの本当の訴えに耳を傾けようとはしない。言葉は不完全なまま宙に浮かんでいる。

 

彼らの世界の中で吐き出さざるを得ない言葉を、もっと日常の詩歌化という形で迎えられるようにしたい。