ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

鶏肉が何の肉か分からない人を吊るし上げることについて

テレビ番組は滅多に見ることはない。それでもぼんやり見ている時にノイズが入ってくることがある。最近始まったテレビ番組で、「昭和世代が平成生まれの若者たちに“知っていて当たり前の常識”をクイズにして出題していく、世代を超えて驚きと気付きがある新基軸の世代間クイズバラエティ番組」という趣旨の番組がある。

まず「常識」という言葉が苦手である。価値観の押し付けであることこの上ないから生理的に苦手なのもあるし、この言葉は頻繁に自分の知識量でマウントを取る時に用いられがちなので、もともと注意が必要な言葉だと思う。マウントを取る人が使う「常識」は「自分の守備範囲」であるに過ぎない。

そして、世代を一括りにしている点でもバリバリ苦手である。生まれた時代が少し違うだけでその人の優劣など変わるわけがない。大きい主語やレッテル貼りは分かりやすいし笑えるときもある。ただ圧倒的に笑えないことの方が多いので、あまり好きな手法ではない。

ゴリゴリにノイジーな番組が新しい元号になった時代にも放映されていることに軽く絶望しながら、Twitterを流し見していたら一つの記事が目に入った。

(出典:哲学者ソクラテスが説いた「無知の知」米大学の科学的研究で証明 - ライブドアニュース

この記事で書かれていることは、「知的謙遜」についてである。知識が多い人ほど、自分の知識には限界があるということを冷静にかつオープンに受け止めている傾向にあるということが実験で示された。要はソクラテスの説いた「無知の知」が研究によって証明されたという内容だ。

元となった研究を参照できてはいないのであまり大それた解釈はしたくないが、この記事で書かれたいくつかの文がとても印象的だったので書き残しておきたい。

「知的謙虚と一般知識の多さの間につながりがあることは、知的謙虚が『人の一般知識の多さを正確に測る能力』と関係しているという研究結果によって説明がつきます。つまり、自分が知らないことを知ること(そして『知らない』と進んで認めること!)は新しい知識への第一歩なのです」

自分の知識の守備範囲は限られていると積極的に受け止めることで、他の人が得意としている範囲の知識にも進んでアクセスすることが出来るということだろう。どうしても自分の得意不得意はあるし、自分と自分以外の全員を比べたら、当たり前に多種多様の守備範囲を持つ他人の方が知識が多く見える。知的謙遜の人はそのことをしっかりと受け止めているのである。

この記事では、知的謙遜の人は「間違いの指摘や他人のアイデアを認めやすい」と書かれている。同じように解釈すれば、知的謙遜の人は他人に対して自分の知識量で攻撃する必要性を感じないということだろう。

長く生きていればそれだけ、たくさんの勉強をしていればそれだけ、自分の手持ちの知識は増える。それでも知識に限りはない。その事実に対して上手く向き合えず、自分の守備範囲だけを武器に誰かを攻撃する方針にシフトするのは勿体ない。

私の「老い」の定義は、「新しい価値観を受け入れるのをやめてしまうこと」である。スマホを使いこなすお年寄りの人がカッコよく見えるのは、「老いていない」からだと思っている。自分の知識を超えた場所に積極的に関わろうとしているその姿勢がカッコいいのだと思う。

知識の継承とは、決して知らない人を吊るし上げるやり方では達成されない。もちろんバラエティ番組なので、吊るし上げられることが「美味しい」こともあるのだろうから、このことに関して噛み付く必要もないのかもしれない。どこまでが本気の回答なのかもこちらが計り知る余地はない。だが、問題はこのような番組を見た人々が「知的謙遜」から遠ざかってしまうことである。

知的謙遜から遠ざかってしまう要因は、何も個人の考え方の問題だけではない。世の中の風潮が加担している面もある。記事ではそのことについても書かれている。

「人は偏見のない人を受け入れやすい傾向にありますが、一方で自分の信念を確信しない人を『弱い』と考えたり、すぐに考え方を変える人を『操作的』『安定していない』と考えることがある可能性もあります」「このような社会における人の見方が、人に自分の間違いを認めづらくしているかもしれません。『自分の考えには自信を持つべき』と考える人は、考えを変えることを恐れるかもしれません」とマンカソ氏は語っており、知的謙虚の理解を深めることが、社会における人のあり方に影響を及ぼすと考えています。

「軸がブレている」ことを恐れる風潮が、知的謙遜(謙虚)への第一歩である「自分の考えを変える」ことへの忌避に繋がるのだろう。

いわゆる「一貫性の原理」が人々の心理にもたらす影響は大きい。好きな雑誌や歌手のCDは、さほど好きでなくなってきても何となく買い続けてしまうというのがその例だ。誰が見ているわけでもないのに、人は自分の中の一貫性を保ちたがる傾向にあるらしい。

「自分の軸を明確にしろ」という言葉は特に就職活動などの世界で飛び交っている。確かにある程度自分の好きなもの、譲れないものを明らかにした方が、就活の指針を立てやすい。

どうしても自分の軸を固めることを是とする風潮が、自分の考え方の軌道修正を拒んでいる面があるのではないかと思う。

そして、自分の軸(≒価値観)にそぐわない人を括り出して攻撃することで自分の軸を保つ行為が、その人を知的謙遜からさらに遠ざからせるのだろう。

 

偉そうに書いてきたが、このことは私の課題でもある。人に知識量で攻撃はしないようにしているつもりだが、自分の知識量を冷静に見つめることはできても、オープンにすることへの抵抗は依然としてある。「こんなことも知らないの」と言われるのが怖いから、あまり人に質問が出来ない。まずは自分で調べようとする。

塾講師のバイトをしていて思うのは、「質問されて嫌になることなどない」ということである。質問したいことをまとめて聞いてくれる生徒に対しては私もどんどん教えたくなる。このことを実感しているのに、当の自分は相変わらず質問下手である。

もうこれは私の性格なのだと割り切ってしまってもいいのかもしれない。ただ現状、人に対して分からないことはちゃんと分からないと言った方が後々になってスムーズになると実感した場面は数多くあるので、知的謙遜かつオープンに貪欲に知識を取り込む姿勢を失わないようにしたい。

私の大の敵である知識マウントが無くなるように、このようなテレビ番組がナンセンスだという認識が広まればいいなと思っている。要は私の個人的な被害妄想による批判である。

件の番組に対する感想の一つに「平成生まれとされている人たちの考え方が分かって興味深い面もある」というものがあった。こういったフラットな見方が出来る視聴者ばかりであれば、この番組もそこまで問題にはならないのかもしれないが。

本当に「平成生まれ」は「令和生まれ」をバカにしたくはないものだが、この若者叩きというお家芸は遥か昔からあるらしいから絶望的かな。