ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

それでも真面目で居続ける5月病患者へ

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僕は筋金入りの真面目な人間である。

「僕は○○○である」の空欄に迷わず「真面目」の三文字を書き入れるだろう。

大学の講義をサボったことはない。病欠か忌引で休んだ以外は全ての講義に出席している。割と教員の要求していることに対応するのが得意だから、課題もそれなりにこなすことができて、成績も満足できるものである。通学時間も結構かかる方だ。授業そのものの時間よりも電車に乗っている時間の方が長いという時もある。それでも毎日通っている。

 

別に自分が偉いと言う気はさらさらない。僕は好き好んでこういう大学の使い方を選んでいるだけであり、極限までサボって要領よく単位を取っていくやり方も大いにアリだと思っている。自分は割と学ぶことが好きだし、講義を妨害してくるような人もいないし、講義に行きたくない人は勝手にいなくなってくれるので、僕が迷惑を被ることもないからだ。

だけど、こういう真面目な人間が損を被るようなことはあってはならないと思う場面が最近多い。

真面目な性格はうつ病に繋がりやすいと言われる。人からの依頼が断れなくて、自分の主張を通すのが苦手で、臨機応変とか柔軟な対応とかが苦手で、オンオフをうまくつけられなくて、失敗を全て自分のせいにしてしまう。

悲しいけれど、真面目な人間は損する役回りを押し付けられることが多い。その結果、過労による自死とか精神疾患とか、犯罪に至ってしまうケースは何度も見られている。インタビューされた関係者は判で押したように同じセリフ。「真面目な人だったんですが…」

 

僕も大学1年の頃、ある講義のやり方がどうしても自分に合わなくてサボりを検討したことが何回もある(結局全部の回に行ったのだが)。世間の人はサボることについてどう思っているのだろうとネット検索してみた。いかんせんサボった経験がないから集合知に頼らざるを得なかった。「大学生が講義をサボってもいい理由」というタイトルのブログ記事などがヒットした。そういった記事の結論は大体、「大学生は自分で使える時間が一番長いのだから、バイトや遊びや自分のしたい勉強、スキルアップに時間を割くべきである、授業を切った分無駄になったと思われる学費はそのために払ってもらってると思えばいい」みたいなものである。なるほどねーと思いつつ、自分は自分のために時間を使うセンスがあまりないような気がして、結局講義には出た。

時は過ぎて、だんだんと自分の世界が広がり始めて、「大学に行くよりもやりたいことがある。自分の人生は自分で切り拓こうと思う」という人も現れて、同じ大学生でも、取る行動がどんどん多様化し始めていることに気付いた。敷かれたレールの上を走るのを見下す人のことは大嫌いだったけど、敷かれたレールからはみ出る決断をした人は純粋にすごいなと思った。僕にはそのセンスがないから。

 

そして、いよいよ進路の方針を固めていこう、という時期に突入した。ここに来て僕は、「5月病」にかかりそうだった。

今が5月だからという理由だけではない。大学3年にしてようやく僕は、今まで積み重ねてきた自分の真面目さのストックをどう取り崩していけばいいのか、真面目さとサボりの狭間で、葛藤に苛まれることになった。新学期が始まって、快活な人間のフリをして順調にこなしてきたことが出来なくなる5月病に、3年目にして罹患してしまいそうだった。

昨今は、自分の経験から得た情報をウリにしたビジネスが飛び交っている。だから、「どれだけ他の人にはないものを持っているか」で競われるように錯覚してしまう。僕を含め真面目な人間は、「そんな経験なんてしてないよ」と尻込んでしまう。実際に僕から見たら色々な資格を持っているようなすごい人でも、同じような悩みを抱いているように見えた。

 

話は飛ぶが、僕の好きな作家、朝井リョウが最新作『死にがいを求めて生きているの』を発売した時のインタビューの一節が強く印象に残っている。朝井リョウは、競争がなくなって絶対評価に移った平成という時代についてこう語っている。

「対立をなくそう」も「自分らしく」も、考え方はもちろん素晴らしいけれど、同時に、対立がなければ自分の存在を感じられない人の存在が炙り出される。自分らしさとは何か、自分とは何かということを自ら考え続けなければならないことによって、新しい地獄みたいなものも生まれる。

(出典:  https://www.google.co.jp/amp/s/www.buzzfeed.com/amphtml/yuikashima/ryo-asai

「人とは違う」ことを「経験」として売り出していく風潮が広まり、どれだけ他人と違う生活を自分らしく過ごせたかということに焦点が当たっている。自分と他人の違い・対立を常に意識しなければならないことの地獄。誰かが採点基準を与えてくれるわけではないから、自分らしさは自分で作らないといけない。

レアな体験、人とは違う経験をSNSで常に投稿していないと焦ってしまう。そういった人のことも朝井リョウは容赦なく描いている。

問題は、こういった「自分らしさ」の判断基準や物差しが、講義をサボることで手に入れられるこうした「経験」と非常に親和性が高いことだと思う。

そして、真面目な人にとっては、自分を測る物差しを自分で作り出さないといけないという風潮に、非常に翻弄されてしまうのだと思う。講義に出ることは大学生として当たり前だと思っていたのに、それだと自分らしくなくない?と世間の風潮から横槍を入れられてしまう。

 

一見、過労自死してしまうくらいに物事を押し付けられることと、自分らしさを自分で決めていこうと言われることは正反対であるように見える。しかし、人から頼まれたことをこなすのが得意な真面目な人にとっては、この正反対の風潮はどちらも自分を蝕んでいくものに映るのだ。前者は身体的にも追い詰め、後者は自分を見失わせて不安にさせる。

じわじわと、進路という自分らしさの道を自分で決めようという空気感が襲ってきている。真面目な人はこうした空気感によって不安に苛まれて、本当はとても輝かしくて評価されるべき勤勉性や協調性も、「自分らしさ」を失わせる欠点として唾棄しかねない。

 

だけれども本来、そういった人のことを考えられる真面目さも、日々を安定して過ごしていくことも、大きく賞賛されるべきことであり、まぎれもない自分らしさなのである。忘れてはいけないし忘れたくない。

本当はやりたくないことも含まれている大学の課題を同時並行で進めてきちんと平均点以上の成果を出せる人も、他人から頼まれたことをできるだけ請け負ってこなせるサークルの一員も、コンスタントに講義に出続けられる人も、どれもれっきとした自分らしさを持っているということ。

こうした真面目さは、「偉い」という他人からの評価よりも先に、輝かしいその人らしさを表したものだということを、忘れたくない。

 

「真面目」という言葉が侮蔑的なニュアンスで使われることがある。「頭が硬い」とか「主体性がない」とか、そういった文脈で一緒に登場させられることがある。

こういった風潮に断固としてNoを突きつけるために、僕は積極的に「真面目」という言葉を肯定的に使い続けるし、これからも真面目を貫いていけたらいいと思っている。

そして、真面目でいることに少し疲れ、5月病になってしまいそうなときは、せめて自分が今まで貫いてきたその姿勢の尊さや輝かしさを思い出してから、もう少し頑張るなり休むなりすればいい。

大丈夫、少しくらい真面目でなくなっても、世界はちゃんと回っていくように出来ているし、自分が思っているよりも自分は真面目だから。自分ではまだまだだと思っていることも、他人から見たら完璧に見えることもあるから。今が不安だったら、かつて真面目でいられた自分に思い切り拍手!自分でするのが恥ずかしかったら、とりあえず大切な人と遊びに行こう。

真面目でいる/いたい人には、サボった人が楽しんだ分と同じくらいの笑顔があればいいのになと思っている。

 

ここで書いてきたことは綺麗事かもしれないけれど、僕に出来ることは綺麗事を書くことだけだ。どんな爆破も容認される舞台装置をこしらえることが僕の趣味だ。真面目な人のオフモードの瞬間にふと拾われる、爆破可能な舞台への招待状を僕は書き続ける。これからも一緒に爆発しながら、なんだかんだで夏を迎えましょう。