ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

2020

 どこか、非日常であり続けている。

 

 パソコンとしばらくにらめっこしていても、出てくるはずの言葉が出てこない。2020年はとにかく「言葉が足りていない」と思う一年だった。そして、意図的に情報を遮断することが多かった。

 なんとなく、慣れてしまっている。今までにない時代を生きていることを自覚しながらも、その時代に対峙するための言葉を持ち合わせていない状況が続いて、「言わない」ことに慣れてしまっている。武器を持たないまま、ひたすら最初のステージの敵キャラを倒し続けているみたいな、どこか本質的なものを先送りにしている感覚。

 おそらく私は、先送りが正解だと思っていた。分かったような口調で本質っぽい何かを語れるほど、私は自分の武器に自信を持てなかった。なんとなく、「言葉では何とでも言える」からこそ、「言葉だけではずっと掴めない何か」が、型抜きされたお菓子の生地みたいに残り続けた。

 以前に、短い言葉で「正しさ」らしきものを書き続けることの暴力性についての文章を書いたことがある。これは2019年の夏に書いたものだが、今こそよく当てはまるものだと思うので、長くなるが一部引用したい。

 

southernwine29.hatenablog.com

世紀末だなと思える事件やネット上での騒動が多発している。旧態依然が見直され、因習が絶えず問い直される時代になっている。各々がそれぞれ必要だと思っている情報が「シェア」されることで氾濫が止まらなくなっている。

SNSという便利な技術は「自分なりの理性」を振りかざして、素材のままでパイ投げのように相手の顔に投げつけることを容易くした。そこでは、相手に「届けよう」とする配慮を重ねることを丸ごと無視してしまった「毒舌」という名の怠惰がまかり通っている。画面越しに一人の人間が居るという意識を丸ごと欠いてしまった言葉が飛び交っている。

(中略)

呼吸をするように断片的な文をリリースすることで自分の思想をチラ見せすることができる。チラ見せのための手っ取り早い方法は、仮想敵を作り出して叩き潰すことである。

140字を相手の悪いところへの言及に尽くせば、自分自身を差し出さずに済む。何かを叩きのめすことでその反転像としての自分を受け取り手に読み取らせようとする。

(中略)

説明を放棄することは、コスパの良い怠惰である。ただの怠惰であるはずなのに、あえて言葉を尽くさないままでいることで、大きなものがそのベールの裏に隠れているかのように振る舞うことができる。性質の悪いことに、意味深なガラクタは大量に置き土産にすることができる。自分も答えがわかってないのに「これは宿題ね」と言い放ち、ぬくぬくと自分の世界に閉じこもる。周りが勝手に宿題に対して色々と回答してくれる。こうしてちょっとずつ怠惰の共犯者を増やす。

(中略)

短さは正しさと等価ではない。公式に落とし込めない事象の数々をより短文で言い表すたびにこぼれ落ちた例外の数々への想像力がどんどん腐敗していく。短文はわかりやすい。刺さりやすい。だから傷つけやすい。

 

 たくさんの「数」が示されて、その指標を基にした短い言葉がリリースされ続ける日々だった。対策の是非は死者数の多寡で測られ、あまりにも規模が大きすぎる議論に一つ一つの個人的な出来事が吸収されていく。それは、対策を考える上ではやむを得ない姿勢である。しかし、この姿勢に慣れすぎてしまうと、一つ一つの感染や死を一緒くたにしてまとめて天秤にかけて道徳的な判断を下す、感情的で暴力的な言葉に変わり得る。特に、「自分なりの理性」を短文で表現する際に、それは顕著になる。

 数の増減ばかりに気を取られ、悲しみに暮れている一つ一つの個人的な出来事の声に耳を閉ざしてしまう。あらゆる死の主語が消え、感染症との闘いという大きな物語の中に回収されていく。ある文脈の中に個人の出来事を無理やり当てはめることは、経験に価値判断を押し付ける暴力になる。どこの国でどういう死を迎えたとしても、それは「誰かの大切な人の死」であることに変わりはない。感染症対策に失敗した国の死者数の中の「一」として埋め込まれ、その価値を決めつけられるものでは、決してない。

 もちろん、判断を行う際には、ある程度の抽象化や数値を用いることはやむを得ない。しかし、世界の誰かの大切な「一」について想いを馳せることも出来るはずである。これは私自身への自戒であり、少しずつ余裕がなくなっていく社会に対する一つの処方箋であるとも考える。社会はある意味、感染症の収束を望んで皆が同じ方向を向いている一方で、ふと頭の方向を変えて自分と異なる場所にいる人と向かい合う機会もなくなっているのではないか。

 

 おそらく、私の中にも潜んでいる「どこか非日常であり続けた」感覚は、どこか抽象化しがちな気持ちがあったのだと思う。2021年は、もう少し言葉を探しに行きたい。