ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

やり過ごされた31×4

一番にとっていたわたしの席 窓ぎわの左端

あなたを見ていた 頬杖つきながら

風のように時間は過ぎていった

 

あなたから呼ばれることが

それだけで、こんなにうれしい

なぜかしら

 

ねえ、そんな季節があってもよかったと

今はそう思えるの

きらきら 揺れる

 

ああ やり過ごされた時間たちよ

いつまでも 美しいままでいて

今日の日を愛せるように

 

きらきら ゆれていた きせつ

 

「やり過ごされた時間たち」南壽あさ子

 

私より小さくなったあなたには 花びらさえも雨粒の音

もくもくとひこうき雲に紛れこむあなた 最後の茶目っ気は灰

空白になりきれなかった空間を愛と呼べたらどんなに楽か

朝方の通勤列車をかき混ぜた匂いをもった昼の葬列

 

今日だけは、つらつらと書くよりもじっくりと想いを馳せるのだろう

例外

こんなに穏やかな時間を

あなたと過ごすのは

何年振りでしょうか

 

落とさぬように抱いた

小さくなったあなたの体

 

真に分け隔てなく

誰しもが

変わらぬ法則によります

急がずとも必ず

 

全てが例外なく

図らず図らず

今にも終わります

波が反っては消える

 

宇多田ヒカル「夕凪」

 

それでも自分の中ではあまりにも例外だった出来事から一年が経つ。当たり前に続くと思っていた日々は全く当たり前ではなく、自分よりも小さくなった体を抱いて、呆然と6月の空気の中に佇んでいた。

あの出来事から、人生のBPMを意図的に落としている。先を見据えて動き出している人たちを見ると、彼らが当然前提としていることが私にはない、という事実ばかりが突きつけられる。

考えることが増えた。突然何のやる気もしなくなることも増えた。知らないよそんなこと、と思いながらも、のらりくらりとやっていくのに長けていた私は、あまり喪失感を表面には出さずに過ごすことが出来ていたと思う。

あれは事故だったけど、生前は社長に殺されていたも同然だ。精神的に衰弱している様を見て、誰が社会で働きたいと思うだろうか。

そうは言っても、将来を決めていかなければならない岐路に立たされて、弱っていることが許されない時が来てしまった。本当はもっとゆっくりと色々なことを考えていたかった。それでも、とりあえず生き延びるためには、上手にまともなフリをし続けなければならない。

酒の飲み過ぎも死因の一つだ。だから絶対に呑んだくれにはならないと決めていた。なのに、酒を飲んで失ってしまった何かや、ごまかし続けてきたことを思うと、自分の浅ましさが嫌になってくる。

自己肯定感は内省的であるかどうかに左右される。大好きな誰かのために時間を費やしている時は考えなくてもいいことを、どうでもいいことに時間を割かなければならないときや、ひとりでいるときに考えてしまう。そういうときはどんどんと自己肯定感が沈殿していく。

だから、何もしないようにはしないようにしてるのかもしれない。きっと、順応的な社会人のフリをして生きていくのだろう。それでも、心の中では忘れたくないことを、時折真っ白な紙に傷をつけるように文章を書いていく。

今後の人生は、うれしい例外ばかりが続いてほしいなと思っている。それは天国に旅立った人に対しても同じ。

全てが例外なく終わる生命も、関係も、愛おしくあれ。

それでも真面目で居続ける5月病患者へ

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僕は筋金入りの真面目な人間である。

「僕は○○○である」の空欄に迷わず「真面目」の三文字を書き入れるだろう。

大学の講義をサボったことはない。病欠か忌引で休んだ以外は全ての講義に出席している。割と教員の要求していることに対応するのが得意だから、課題もそれなりにこなすことができて、成績も満足できるものである。通学時間も結構かかる方だ。授業そのものの時間よりも電車に乗っている時間の方が長いという時もある。それでも毎日通っている。

 

別に自分が偉いと言う気はさらさらない。僕は好き好んでこういう大学の使い方を選んでいるだけであり、極限までサボって要領よく単位を取っていくやり方も大いにアリだと思っている。自分は割と学ぶことが好きだし、講義を妨害してくるような人もいないし、講義に行きたくない人は勝手にいなくなってくれるので、僕が迷惑を被ることもないからだ。

だけど、こういう真面目な人間が損を被るようなことはあってはならないと思う場面が最近多い。

真面目な性格はうつ病に繋がりやすいと言われる。人からの依頼が断れなくて、自分の主張を通すのが苦手で、臨機応変とか柔軟な対応とかが苦手で、オンオフをうまくつけられなくて、失敗を全て自分のせいにしてしまう。

悲しいけれど、真面目な人間は損する役回りを押し付けられることが多い。その結果、過労による自死とか精神疾患とか、犯罪に至ってしまうケースは何度も見られている。インタビューされた関係者は判で押したように同じセリフ。「真面目な人だったんですが…」

 

僕も大学1年の頃、ある講義のやり方がどうしても自分に合わなくてサボりを検討したことが何回もある(結局全部の回に行ったのだが)。世間の人はサボることについてどう思っているのだろうとネット検索してみた。いかんせんサボった経験がないから集合知に頼らざるを得なかった。「大学生が講義をサボってもいい理由」というタイトルのブログ記事などがヒットした。そういった記事の結論は大体、「大学生は自分で使える時間が一番長いのだから、バイトや遊びや自分のしたい勉強、スキルアップに時間を割くべきである、授業を切った分無駄になったと思われる学費はそのために払ってもらってると思えばいい」みたいなものである。なるほどねーと思いつつ、自分は自分のために時間を使うセンスがあまりないような気がして、結局講義には出た。

時は過ぎて、だんだんと自分の世界が広がり始めて、「大学に行くよりもやりたいことがある。自分の人生は自分で切り拓こうと思う」という人も現れて、同じ大学生でも、取る行動がどんどん多様化し始めていることに気付いた。敷かれたレールの上を走るのを見下す人のことは大嫌いだったけど、敷かれたレールからはみ出る決断をした人は純粋にすごいなと思った。僕にはそのセンスがないから。

 

そして、いよいよ進路の方針を固めていこう、という時期に突入した。ここに来て僕は、「5月病」にかかりそうだった。

今が5月だからという理由だけではない。大学3年にしてようやく僕は、今まで積み重ねてきた自分の真面目さのストックをどう取り崩していけばいいのか、真面目さとサボりの狭間で、葛藤に苛まれることになった。新学期が始まって、快活な人間のフリをして順調にこなしてきたことが出来なくなる5月病に、3年目にして罹患してしまいそうだった。

昨今は、自分の経験から得た情報をウリにしたビジネスが飛び交っている。だから、「どれだけ他の人にはないものを持っているか」で競われるように錯覚してしまう。僕を含め真面目な人間は、「そんな経験なんてしてないよ」と尻込んでしまう。実際に僕から見たら色々な資格を持っているようなすごい人でも、同じような悩みを抱いているように見えた。

 

話は飛ぶが、僕の好きな作家、朝井リョウが最新作『死にがいを求めて生きているの』を発売した時のインタビューの一節が強く印象に残っている。朝井リョウは、競争がなくなって絶対評価に移った平成という時代についてこう語っている。

「対立をなくそう」も「自分らしく」も、考え方はもちろん素晴らしいけれど、同時に、対立がなければ自分の存在を感じられない人の存在が炙り出される。自分らしさとは何か、自分とは何かということを自ら考え続けなければならないことによって、新しい地獄みたいなものも生まれる。

(出典:  https://www.google.co.jp/amp/s/www.buzzfeed.com/amphtml/yuikashima/ryo-asai

「人とは違う」ことを「経験」として売り出していく風潮が広まり、どれだけ他人と違う生活を自分らしく過ごせたかということに焦点が当たっている。自分と他人の違い・対立を常に意識しなければならないことの地獄。誰かが採点基準を与えてくれるわけではないから、自分らしさは自分で作らないといけない。

レアな体験、人とは違う経験をSNSで常に投稿していないと焦ってしまう。そういった人のことも朝井リョウは容赦なく描いている。

問題は、こういった「自分らしさ」の判断基準や物差しが、講義をサボることで手に入れられるこうした「経験」と非常に親和性が高いことだと思う。

そして、真面目な人にとっては、自分を測る物差しを自分で作り出さないといけないという風潮に、非常に翻弄されてしまうのだと思う。講義に出ることは大学生として当たり前だと思っていたのに、それだと自分らしくなくない?と世間の風潮から横槍を入れられてしまう。

 

一見、過労自死してしまうくらいに物事を押し付けられることと、自分らしさを自分で決めていこうと言われることは正反対であるように見える。しかし、人から頼まれたことをこなすのが得意な真面目な人にとっては、この正反対の風潮はどちらも自分を蝕んでいくものに映るのだ。前者は身体的にも追い詰め、後者は自分を見失わせて不安にさせる。

じわじわと、進路という自分らしさの道を自分で決めようという空気感が襲ってきている。真面目な人はこうした空気感によって不安に苛まれて、本当はとても輝かしくて評価されるべき勤勉性や協調性も、「自分らしさ」を失わせる欠点として唾棄しかねない。

 

だけれども本来、そういった人のことを考えられる真面目さも、日々を安定して過ごしていくことも、大きく賞賛されるべきことであり、まぎれもない自分らしさなのである。忘れてはいけないし忘れたくない。

本当はやりたくないことも含まれている大学の課題を同時並行で進めてきちんと平均点以上の成果を出せる人も、他人から頼まれたことをできるだけ請け負ってこなせるサークルの一員も、コンスタントに講義に出続けられる人も、どれもれっきとした自分らしさを持っているということ。

こうした真面目さは、「偉い」という他人からの評価よりも先に、輝かしいその人らしさを表したものだということを、忘れたくない。

 

「真面目」という言葉が侮蔑的なニュアンスで使われることがある。「頭が硬い」とか「主体性がない」とか、そういった文脈で一緒に登場させられることがある。

こういった風潮に断固としてNoを突きつけるために、僕は積極的に「真面目」という言葉を肯定的に使い続けるし、これからも真面目を貫いていけたらいいと思っている。

そして、真面目でいることに少し疲れ、5月病になってしまいそうなときは、せめて自分が今まで貫いてきたその姿勢の尊さや輝かしさを思い出してから、もう少し頑張るなり休むなりすればいい。

大丈夫、少しくらい真面目でなくなっても、世界はちゃんと回っていくように出来ているし、自分が思っているよりも自分は真面目だから。自分ではまだまだだと思っていることも、他人から見たら完璧に見えることもあるから。今が不安だったら、かつて真面目でいられた自分に思い切り拍手!自分でするのが恥ずかしかったら、とりあえず大切な人と遊びに行こう。

真面目でいる/いたい人には、サボった人が楽しんだ分と同じくらいの笑顔があればいいのになと思っている。

 

ここで書いてきたことは綺麗事かもしれないけれど、僕に出来ることは綺麗事を書くことだけだ。どんな爆破も容認される舞台装置をこしらえることが僕の趣味だ。真面目な人のオフモードの瞬間にふと拾われる、爆破可能な舞台への招待状を僕は書き続ける。これからも一緒に爆発しながら、なんだかんだで夏を迎えましょう。

鶏肉が何の肉か分からない人を吊るし上げることについて

テレビ番組は滅多に見ることはない。それでもぼんやり見ている時にノイズが入ってくることがある。最近始まったテレビ番組で、「昭和世代が平成生まれの若者たちに“知っていて当たり前の常識”をクイズにして出題していく、世代を超えて驚きと気付きがある新基軸の世代間クイズバラエティ番組」という趣旨の番組がある。

まず「常識」という言葉が苦手である。価値観の押し付けであることこの上ないから生理的に苦手なのもあるし、この言葉は頻繁に自分の知識量でマウントを取る時に用いられがちなので、もともと注意が必要な言葉だと思う。マウントを取る人が使う「常識」は「自分の守備範囲」であるに過ぎない。

そして、世代を一括りにしている点でもバリバリ苦手である。生まれた時代が少し違うだけでその人の優劣など変わるわけがない。大きい主語やレッテル貼りは分かりやすいし笑えるときもある。ただ圧倒的に笑えないことの方が多いので、あまり好きな手法ではない。

ゴリゴリにノイジーな番組が新しい元号になった時代にも放映されていることに軽く絶望しながら、Twitterを流し見していたら一つの記事が目に入った。

(出典:哲学者ソクラテスが説いた「無知の知」米大学の科学的研究で証明 - ライブドアニュース

この記事で書かれていることは、「知的謙遜」についてである。知識が多い人ほど、自分の知識には限界があるということを冷静にかつオープンに受け止めている傾向にあるということが実験で示された。要はソクラテスの説いた「無知の知」が研究によって証明されたという内容だ。

元となった研究を参照できてはいないのであまり大それた解釈はしたくないが、この記事で書かれたいくつかの文がとても印象的だったので書き残しておきたい。

「知的謙虚と一般知識の多さの間につながりがあることは、知的謙虚が『人の一般知識の多さを正確に測る能力』と関係しているという研究結果によって説明がつきます。つまり、自分が知らないことを知ること(そして『知らない』と進んで認めること!)は新しい知識への第一歩なのです」

自分の知識の守備範囲は限られていると積極的に受け止めることで、他の人が得意としている範囲の知識にも進んでアクセスすることが出来るということだろう。どうしても自分の得意不得意はあるし、自分と自分以外の全員を比べたら、当たり前に多種多様の守備範囲を持つ他人の方が知識が多く見える。知的謙遜の人はそのことをしっかりと受け止めているのである。

この記事では、知的謙遜の人は「間違いの指摘や他人のアイデアを認めやすい」と書かれている。同じように解釈すれば、知的謙遜の人は他人に対して自分の知識量で攻撃する必要性を感じないということだろう。

長く生きていればそれだけ、たくさんの勉強をしていればそれだけ、自分の手持ちの知識は増える。それでも知識に限りはない。その事実に対して上手く向き合えず、自分の守備範囲だけを武器に誰かを攻撃する方針にシフトするのは勿体ない。

私の「老い」の定義は、「新しい価値観を受け入れるのをやめてしまうこと」である。スマホを使いこなすお年寄りの人がカッコよく見えるのは、「老いていない」からだと思っている。自分の知識を超えた場所に積極的に関わろうとしているその姿勢がカッコいいのだと思う。

知識の継承とは、決して知らない人を吊るし上げるやり方では達成されない。もちろんバラエティ番組なので、吊るし上げられることが「美味しい」こともあるのだろうから、このことに関して噛み付く必要もないのかもしれない。どこまでが本気の回答なのかもこちらが計り知る余地はない。だが、問題はこのような番組を見た人々が「知的謙遜」から遠ざかってしまうことである。

知的謙遜から遠ざかってしまう要因は、何も個人の考え方の問題だけではない。世の中の風潮が加担している面もある。記事ではそのことについても書かれている。

「人は偏見のない人を受け入れやすい傾向にありますが、一方で自分の信念を確信しない人を『弱い』と考えたり、すぐに考え方を変える人を『操作的』『安定していない』と考えることがある可能性もあります」「このような社会における人の見方が、人に自分の間違いを認めづらくしているかもしれません。『自分の考えには自信を持つべき』と考える人は、考えを変えることを恐れるかもしれません」とマンカソ氏は語っており、知的謙虚の理解を深めることが、社会における人のあり方に影響を及ぼすと考えています。

「軸がブレている」ことを恐れる風潮が、知的謙遜(謙虚)への第一歩である「自分の考えを変える」ことへの忌避に繋がるのだろう。

いわゆる「一貫性の原理」が人々の心理にもたらす影響は大きい。好きな雑誌や歌手のCDは、さほど好きでなくなってきても何となく買い続けてしまうというのがその例だ。誰が見ているわけでもないのに、人は自分の中の一貫性を保ちたがる傾向にあるらしい。

「自分の軸を明確にしろ」という言葉は特に就職活動などの世界で飛び交っている。確かにある程度自分の好きなもの、譲れないものを明らかにした方が、就活の指針を立てやすい。

どうしても自分の軸を固めることを是とする風潮が、自分の考え方の軌道修正を拒んでいる面があるのではないかと思う。

そして、自分の軸(≒価値観)にそぐわない人を括り出して攻撃することで自分の軸を保つ行為が、その人を知的謙遜からさらに遠ざからせるのだろう。

 

偉そうに書いてきたが、このことは私の課題でもある。人に知識量で攻撃はしないようにしているつもりだが、自分の知識量を冷静に見つめることはできても、オープンにすることへの抵抗は依然としてある。「こんなことも知らないの」と言われるのが怖いから、あまり人に質問が出来ない。まずは自分で調べようとする。

塾講師のバイトをしていて思うのは、「質問されて嫌になることなどない」ということである。質問したいことをまとめて聞いてくれる生徒に対しては私もどんどん教えたくなる。このことを実感しているのに、当の自分は相変わらず質問下手である。

もうこれは私の性格なのだと割り切ってしまってもいいのかもしれない。ただ現状、人に対して分からないことはちゃんと分からないと言った方が後々になってスムーズになると実感した場面は数多くあるので、知的謙遜かつオープンに貪欲に知識を取り込む姿勢を失わないようにしたい。

私の大の敵である知識マウントが無くなるように、このようなテレビ番組がナンセンスだという認識が広まればいいなと思っている。要は私の個人的な被害妄想による批判である。

件の番組に対する感想の一つに「平成生まれとされている人たちの考え方が分かって興味深い面もある」というものがあった。こういったフラットな見方が出来る視聴者ばかりであれば、この番組もそこまで問題にはならないのかもしれないが。

本当に「平成生まれ」は「令和生まれ」をバカにしたくはないものだが、この若者叩きというお家芸は遥か昔からあるらしいから絶望的かな。

5月の風

たとえば君が歌ったそのメロディーが

音のシャワーを浴びるように心地がいいから

僕は一つ一つ色をつけてゆきたい

いつ見返しても笑えるように

 


少し早足で歩いた夏を急かすよう

ひどく遠回りしながら近道する季節

ほらね一つ二つ足を踏み出しながら

週末の魔法ばかり考える

 


陽の当たるリビングルーム

うたたねしながら

思いだしたのは小さな赤い頬ばかり

今日は晴れてるよ、って

小さく微笑んで

隣に舞い込んだ

幼気な5月の風

 


だからさ君がくれたんだその毎日は

何気ない言葉は甘いドーナツとシロップ

僕は一喜一憂バカらしく思えちゃう

早くコーヒー飲んで出かけなきゃ

 


木漏れ日のシャンデリア

スキップしながら

思いだしたのはしなやかな黒い髪ばかり

おかえりなさい、なんて

最高の微笑みで

待っていてくれたらな

抱きしめた5月の風

 


日常のときめきは

切なく楽しいのだ

思いだしたのは桃色の潤いばかり

今日も晴れてるよ、って

小さく微笑んで

隣に舞い込んだ

大好きな5月の風

改元に際して

2019年5月1日を迎える瞬間は、毎日の日付が変わる瞬間と同じものであるはずなのに、何やら日本中が浮足立っていたし、私もその例外ではなかった。平成から令和という時代へ移り変わるその歴史的瞬間を、固唾を飲んで見守っていた。この元号にまつわることで、私が興味深いと感じたことは二点あげられる。

 

 一点目は、新しい元号が伝わるスピードだ。そもそも、元号というものは不思議である。日頃の生活で私は、様々なコミュニティの一員として生活している。家庭、サークル、ゼミ、バイト先、小中の同級生、高校のクラスの友達、部活の友達、コミュニティ一つ一つで私や相手が話す内容はもちろん違う。使う言葉だって違う。そのコミュニティでしか通じない言葉もたくさんしゃべっている。無意識の中で自分の手持ちの語彙や身振り、行動様式を使い分けているのである。しかし、「令和」という新しい元号については、誰もが知っている言葉になった。どのコミュニティの中で発しても違和感のない言葉。冷静に考えてみると、こうした語彙はほとんどないように思った。

 私は、家庭で親と話すときに、友達と話す際に使うような略語などのスラングは使わないようにしている。こうした言葉はいわゆる「新しい言葉」であり、浸透するまでに時間がかかる。このときに私は、同年代の人との会話で好んで使っている言葉は、上の世代には通じないという前提で話している。このとき、「新しい言葉」の浸透には断絶が見られる。また、ある言葉の誤用があまりに広まりすぎて、その意味も定着して辞書に記載されるようになった言葉(「確信犯」や「敷居が高い」など)も、新しい意味をもった言葉としての「新しい言葉」である。こうした誤用は、「言葉の意味は移り変わっていく」と捉える人も、依然として誤用を許さない立場の人もいて、人々の間に広く浸透しているとは言い難いものである。

 それに対して「令和」という言葉は、この元号が発表された2019年4月1日までは存在しなかった言葉なのである。その意味でとても新しい言葉であるはずだが、瞬く間に人々の間に浸透して、広く使われるようになった。令和の名前を冠した商品や楽曲が発表されて話題になったことも記憶に新しい。こうして人々の間に浸透するスピードの観点で考えると、元号は特異なものであるように思う。

 では、発想を転換すると、この新しい元号を知らないまま生活している人は居るのかということにも思いが至る。テレビやネット、新聞などのメディアから完全に離れていて、公文書などで元号を使わない人は、もしかしたら令和を知らないまま生活しているのかもしれない。このように考えると、「国民全員が知っている」という前提で捉えていた元号がかなり異質なものとして感じられるようになった。

 

 二点目は、平成から令和へと時代をまたぐに際して、時間の感覚が人によってずいぶん違うという印象を受けた。私の場合は人生で初めて元号が変わる瞬間を目の当たりにするということで、かなり歴史的な瞬間の目撃者となった気分でいた。テレビ番組でも、平成を振り返りながら令和に変わる瞬間をカウントダウンで迎えるといった趣旨の番組がどのキー局でも見られた。また、ソーシャルワイヤー株式会社の調査によると、「令和」に関するTwitterの投稿は、5月1日の0時00分に226,706件のTwitter投稿があり、2019年元旦の0時00分の「あけましておめでとうございます」(あけおめ含む)についての投稿111,567件の2倍以上のツイート数となっていることが分かった。年越しやあるいはそれ以上の感覚で令和になる瞬間を待っている人が多いことが明らかになった。

 一方で、私の周りやネット上での声には、いつの間にか5月1日を迎えていたという人や、普通に寝ようと思っていたという人もいて、普段日付が変わる瞬間とあまり変わらない感覚で過ごしている人もいた。このような感覚の違いはどこから生まれるのであろうか。

 まず、この改元という機を狙ったプロモーション活動が人々を煽り立てていることは指摘できるだろう。先述したとおり令和にまつわる曲や商品が生まれることで、人々の間に、改元に対する一体感を生む結果となった。新元号発表直後に生まれたものとして次のものが挙げられている。

広島県の精密鋳造部品会社「キャステム」は、テレビに映された「令和」の文字を転写したスズ製のぐい呑みを発表の2分27秒後にホームページで販売。

・上野の乾物店・伊勢音は、「令和」パッケージのかつお節を3分38秒で販売。

静岡県の「伊豆・三津シーパラダイス」のアシカ・グリルが発表から約30分後に「令和」の書道パフォーマンスを披露。

 また、平成最後の日付が記された御朱印や、令和最初の免許証を手に入れる人など、ビジネス以外でも、人々が改元を機に動いている様子は指摘できる。今回の改元を時代の区切りとして体感している人は、このようなビジネスに参与しやすい傾向にあるのではないだろうか。

 また、Twitterのユーザーに多い10,20代の人々は今回の改元が人生で初めての経験であることも指摘できるだろう。初めての経験を記録に残しておこうと、ツイートや記念品という形に残るものに人々が動かされやすいのだと考えられる。

 改元にまつわる二点の現象を総合して考えると、元号の変化という出来事がいかに特異なものであるかが分かってくる。果たして改元はイベントのように捉えられるべきものなのか。明言は憚られるが、その意味は新しい時代とともに考えていきたい。

 

※ゼミで書いたレポートの転載です。

僕たちの秘密のことば重ねてさ、そして二人の辞書を編もうね

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その二人でしか通じない言葉は、とても素敵だと思う。

誰も理解できないような言葉を交わして、街の隅っこで小さく笑っているような二人はとても良い。これこそがロマンチックだと思う。場所は夜景の映えるレストランでも、どこにでもあるチェーン店でも、公園のベンチでも、自宅でも何だって良い。誰にも見せていない二人の会話こそがロマンだ。いつだってそうだ。

 

フードコートでご飯を食べようとステーキ屋に並んでいた時、私の前にはおばあさんが並んでいた。注文はたどたどしかったが、250gのサーロインステーキを頼んでいた。おばあさんがこれだけの量の肉を食べるのか?と内心すごく気になっていた。

私も注文が終わって席に着くと、隣にはさっき注文していたおばあさんと、その夫らしき男性が座っていた。おばあさんは、自分が頼んだステーキをおじいさんにあげていた。やっぱり食べきれなかったようで、ステーキを頬張るおじいさんを見ながらニッコリと笑っていた。はじめから自分が食べきれないということを分かっていて、夫と二人でシェアしようと注文していたのだ。なんだかとても可愛い人だなと、私は思った。

 

二人だけの時間の美しさはこういうところにある。お洒落なパスタや綺麗な色をした飲み物に美しさなどはない。そういったものには目もくれずに、フードコートのありふれた料理を分け合うだけで笑っているような二人の時間こそが美しい。そして、こういった瞬間は決してカメラで縁取られることのない、だからこそ特別な瞬間だ。

SNSが広く浸透して、誰もが自分の日常を気軽に公開できるようになった。どこが日常なんですか、というくらいキラキラした写真が画面を覆い尽くしているのを見たとき、自分の手が握っている機械のことを少しだけ恨んだ。日常を着飾らないといけないという無言の圧力なんて、消えてしまえばいいのにと思った。

友達とまさに稀有な体験をしている時、これは到底自分たちだけが見ているのはもったいないよ、という動機で全世界にシェアすることは、とても素敵だと思うし、単純にこちらも興味が湧くので好きだ。

でも、大切な人が自分だけに向けているかもしれない表情や言葉や贈り物を全世界に向けて発信することは、私には出来ないな、と思う。二人だけの閉じられた世界をオープンにしたら、一体二人はどこに安住の地があるのだろうか。フードコートでちゃんと笑っていられるのだろうか。

 

別にそういった行為を否定するつもりはない。いわゆる「リア充アピール」を取り出して、「他人に評価されたいばかりで、自分の人生を生きていないんだよな」って毒付いている人の方がよっぽど、人の価値観を否定して攻撃することで自分の存在を知らしめる、他人に乗っかりまくりな生き方だなと思う。二人の素敵なひとときを見せることで誰かが喜んでくれるのなら、どんどんと公開すればいいと思うけど、でも、自分達のパーソナルスペースはある程度あった方がきっと楽しい。

他人同士であった二人が意気投合して、一緒に過ごすようになって、だんだん二人にしか分からない瞬間がたくさん増えていくのって、とても素敵で何物にも代え難くて、最高なことだと思う。

 

窓の外に見えている縁取られた空よりも、隣で寝ている大切な人が見ている夢を一緒に見たくないですか。だって誰だって見られるものよりも自分しか見られないものが沢山ある方が、人生を彩っている気がするから。

くだらない瞬間は最高だ。決してどこのカメラも撮ってくれないような瞬間や、理論の中に組み込まれない例外だらけの毎日、日々綴られる文章の隙間からこぼれ落ちたようなひとときがたくさん砂時計のように蓄積しているから、あの老夫婦のフードコートでの一瞬が、とても尊いものに写っていたのだろう。

 

どこにも載せられないGWだったって大いに結構。誰にも見せられないものって最高だ。

別にそれは今、誰かと作らなくたっていい。過去の思い出に浸ったり自分だけの世界で楽しんだりしているのも最高だ。結局なにをしていたって、いつかのどこかの誰かと繋がっているのだから。この世界に息をしている以上、誰かと繋がっているものだ。繋がらざるを得ないのだ。

「繋がっていないといけないのは自分の人生を生きていない」なんて批判はナンセンス。「誰かと繋がっていたい思うような自分」の人生を生きている。優劣なんてどこにあるのだろう。他人によく思われることが自分本位に生きるより心地いい人だっているのだから。

 

死守すべきはどこにも公開できない素敵な時間。それ以外は何もない。ひとはそれを「日常」と呼んでいるのかもしれない。「日常は奇跡の連続だ」というのは私の好きなセリフだが、別に奇跡だからって写真に残しておく必要はないのだ。そのために思い出は頭の中に仕舞われるのだから。

生活はぐるぐる回っていくのだから、少しくらいSNSから雲隠れしていたってバレはしないのだから、好きなだけ寝て好きなだけ散歩してよう、せっかく外は晴れているし。

 

「なんだ寝てたの?今日は晴れてるよ」なんて君の声まだ聞こえそう

記憶の中だけに住む人だけど

今も私をそっと包んでる

(廻り道/GARNET CROW