ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

改元に際して

2019年5月1日を迎える瞬間は、毎日の日付が変わる瞬間と同じものであるはずなのに、何やら日本中が浮足立っていたし、私もその例外ではなかった。平成から令和という時代へ移り変わるその歴史的瞬間を、固唾を飲んで見守っていた。この元号にまつわることで、私が興味深いと感じたことは二点あげられる。

 

 一点目は、新しい元号が伝わるスピードだ。そもそも、元号というものは不思議である。日頃の生活で私は、様々なコミュニティの一員として生活している。家庭、サークル、ゼミ、バイト先、小中の同級生、高校のクラスの友達、部活の友達、コミュニティ一つ一つで私や相手が話す内容はもちろん違う。使う言葉だって違う。そのコミュニティでしか通じない言葉もたくさんしゃべっている。無意識の中で自分の手持ちの語彙や身振り、行動様式を使い分けているのである。しかし、「令和」という新しい元号については、誰もが知っている言葉になった。どのコミュニティの中で発しても違和感のない言葉。冷静に考えてみると、こうした語彙はほとんどないように思った。

 私は、家庭で親と話すときに、友達と話す際に使うような略語などのスラングは使わないようにしている。こうした言葉はいわゆる「新しい言葉」であり、浸透するまでに時間がかかる。このときに私は、同年代の人との会話で好んで使っている言葉は、上の世代には通じないという前提で話している。このとき、「新しい言葉」の浸透には断絶が見られる。また、ある言葉の誤用があまりに広まりすぎて、その意味も定着して辞書に記載されるようになった言葉(「確信犯」や「敷居が高い」など)も、新しい意味をもった言葉としての「新しい言葉」である。こうした誤用は、「言葉の意味は移り変わっていく」と捉える人も、依然として誤用を許さない立場の人もいて、人々の間に広く浸透しているとは言い難いものである。

 それに対して「令和」という言葉は、この元号が発表された2019年4月1日までは存在しなかった言葉なのである。その意味でとても新しい言葉であるはずだが、瞬く間に人々の間に浸透して、広く使われるようになった。令和の名前を冠した商品や楽曲が発表されて話題になったことも記憶に新しい。こうして人々の間に浸透するスピードの観点で考えると、元号は特異なものであるように思う。

 では、発想を転換すると、この新しい元号を知らないまま生活している人は居るのかということにも思いが至る。テレビやネット、新聞などのメディアから完全に離れていて、公文書などで元号を使わない人は、もしかしたら令和を知らないまま生活しているのかもしれない。このように考えると、「国民全員が知っている」という前提で捉えていた元号がかなり異質なものとして感じられるようになった。

 

 二点目は、平成から令和へと時代をまたぐに際して、時間の感覚が人によってずいぶん違うという印象を受けた。私の場合は人生で初めて元号が変わる瞬間を目の当たりにするということで、かなり歴史的な瞬間の目撃者となった気分でいた。テレビ番組でも、平成を振り返りながら令和に変わる瞬間をカウントダウンで迎えるといった趣旨の番組がどのキー局でも見られた。また、ソーシャルワイヤー株式会社の調査によると、「令和」に関するTwitterの投稿は、5月1日の0時00分に226,706件のTwitter投稿があり、2019年元旦の0時00分の「あけましておめでとうございます」(あけおめ含む)についての投稿111,567件の2倍以上のツイート数となっていることが分かった。年越しやあるいはそれ以上の感覚で令和になる瞬間を待っている人が多いことが明らかになった。

 一方で、私の周りやネット上での声には、いつの間にか5月1日を迎えていたという人や、普通に寝ようと思っていたという人もいて、普段日付が変わる瞬間とあまり変わらない感覚で過ごしている人もいた。このような感覚の違いはどこから生まれるのであろうか。

 まず、この改元という機を狙ったプロモーション活動が人々を煽り立てていることは指摘できるだろう。先述したとおり令和にまつわる曲や商品が生まれることで、人々の間に、改元に対する一体感を生む結果となった。新元号発表直後に生まれたものとして次のものが挙げられている。

広島県の精密鋳造部品会社「キャステム」は、テレビに映された「令和」の文字を転写したスズ製のぐい呑みを発表の2分27秒後にホームページで販売。

・上野の乾物店・伊勢音は、「令和」パッケージのかつお節を3分38秒で販売。

静岡県の「伊豆・三津シーパラダイス」のアシカ・グリルが発表から約30分後に「令和」の書道パフォーマンスを披露。

 また、平成最後の日付が記された御朱印や、令和最初の免許証を手に入れる人など、ビジネス以外でも、人々が改元を機に動いている様子は指摘できる。今回の改元を時代の区切りとして体感している人は、このようなビジネスに参与しやすい傾向にあるのではないだろうか。

 また、Twitterのユーザーに多い10,20代の人々は今回の改元が人生で初めての経験であることも指摘できるだろう。初めての経験を記録に残しておこうと、ツイートや記念品という形に残るものに人々が動かされやすいのだと考えられる。

 改元にまつわる二点の現象を総合して考えると、元号の変化という出来事がいかに特異なものであるかが分かってくる。果たして改元はイベントのように捉えられるべきものなのか。明言は憚られるが、その意味は新しい時代とともに考えていきたい。

 

※ゼミで書いたレポートの転載です。