ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

Slumber

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この頃、現実的な夢ばかり見る。現実と夢の区別がつけられなくなってくる。

ヒューマンドラマを見る。昔からファンタジーよりも日常系が好きだったけど、歳をとるにつれてめちゃめちゃリアルな話を現実の自分となぞるのが好きになっていく。こんな愛を捧げられたらよかったなと思いながら、常に画面越しの理想から遠い自分を意識する。

現実とフィクションの狭間は、ちょうど生と死の間を揺らめくように、感情の揺さぶりから逃れられない。せめて夢の中くらい、等身大の自分でいたいんだけどな。「大切」の数が増えていくにつれて、色々なものを大切にできなくなっていく自分の限界と折り合いをつけていかなきゃいけないんだ。大人になってしまう。

「言いたいことがだんだん増えて、言えないことが沢山増えた」

夜間移動と実況中継

f:id:SouthernWine29:20190907175114j:image個人的に考え事をするのに一番最適なタイミングは、深夜の照明が落とされた交通機関の中である。つまり夜行バスや飛行機が一番良い。比較的どこでも寝られる体質の私は、寝ている間に連れて帰ってくれる上に価格が安い夜行バスという移動手段を重宝している。もともと夜という時間は考え事には向いているが、夜の自室で考え事をしているとどうしてもスマホや本にすぐ手を伸ばしてしまって、自分の言葉を手繰り寄せることを怠ってしまう。夜行バスや飛行機は周りの人が寝ているため、煌々とスマホを照らしたり読書灯を点けたりすると彼らの睡眠の邪魔になる。だから、音楽を聴くか自分の言葉を紡ぎ出すくらいしかやることがなくなる。

「自分と向き合う」というフレーズは聞き飽きているのであまり使いたくはないのだけど、感覚としてはそれに近い。考えることは早朝帰宅してから何を食べようかというくだらないことから自分の人生を省みることなど多種多様である。ここでは主に後者について話したいわけだが、ホールケーキを切り取って食べるように、人生のこれまでのタイムラインに切れ目を入れて取り出してみると、当時は気づけなかったタイムラインに散りばめられた布石や機微に想いを馳せることができる。この多くは感情を伴いながら見ていかなければならず、時にその感情の針は大きく振れることもあるからなかなか難しい。

例えば小学校時代を切り取って取り出して見つめたときに、どうして当時の自分はあんな残酷な言動が出来たのだろうと罪悪感が押し寄せてくると同時に、あんなことをしてしまったけれどしかしもう時効だろう、と勝手に自分の中で物語を完結させようとする自分の脆弱さにも取り囲まれる。思い出や後悔に付随してくる感情と付き合っていくことは本当に難しいけれど、せめて自分くらいは思い出を肯定してあげたいという圧倒的な自己中心性を基に動いている。

もちろん肯定できないことの方が圧倒的に多く、誰かに肯定の言葉を差し出すことは出来ても自分のことになると難しいわけで、こういうときに安易に誰かに縋って肯定してもらうことはもう辞めたいのだけれど、私は甘やかされまくっている。早く自分の機嫌くらい自分で取れるようになりたいものだ。

 

夜寝る前に一日を振り返って反省タイムに入るという人は結構いるらしい。私は基本的に意図して寝ることが出来ない(俗に言う寝落ちの王様なのだ)ので、夜間移動の時くらいしか振り返りの機会を設けていない。寝るときくらいは何も考えないでいたいというのも大きい。

この人はちゃんと自分を客観視していてすごいなあと私が思う人は、こうした振り返りの時間をしっかりと過ごしているのかもしれない。だからこそ反省を活かして未来をしっかりと見つめている。惰性で過去ばかり見ている私とは根本的に違うのである。

最近、自分の周りのあらゆる事象が続々と伏線を回収し始めていると思っていたが、私が張り巡らされた伏線に気づくチャンスを逃し続けているだけなのだと気づいた。最近の自己嫌悪の淵源は大体この辺りにあるように思える。「強く」生きることは無理でも、丁寧に生きていくことはまだ改善の余地ありと言った感じ。

 

話が少し変わるけれど、すぐに自分が今直面している出来事をリアルタイムで伝えることが出来るようになった現代においては、自分が送っていく人生を切り取るスパンが、頻繁に更新されるインスタのストーリーのようにどんどん細かくなっていく。時が経ってから、ある程度の幅を持った「生きてきた時間」を見つめ直す機会が減っているように感じる。肯定が欲しければ即座に肯定を貰うことも容易くなって、より瞬間瞬間に生きている自覚がある。人生の中の叙述において、完了形よりも進行形が覇権を握っている。

しかし、夜間の移動によってリアルタイムで自分の人生を実況中継するスマホという手段を遮断され、他人の実況中継を見る手段もなくし、完了形で自分の人生を綴ってみたときに初めて、自分が見落としてきたことの多さに気づかされる。この点で、完了形は進行形に取って代わられることはないと思わされる。

時流の波に乗っていくことは大切ではあるけれど、進行形で記す時に用いがちな言葉やスキーマは分かりやすく目立っている分、時に暴力的であり視野狭窄である。より俯瞰して物事を見ないと掴みきれないことだらけだ。俯瞰をやり過ぎるとそれはそれで「怖い」と言われるのだろうけど。進行形を尽くした力動的なライブ感の強い記述との兼ね合いが難しい。

このバランスを取っていくために、完了形が適切だと思える物事については、これからも完了形のままで記せたら良いなと思っている。噛み砕いて言えば、特に真剣な物事に対する所感については熟慮の末に投下する方が傷は少ないと私は思うし、何でもかんでも中継すれば良いってもんじゃないよなという話である。

夏の終わりと31×6

f:id:SouthernWine29:20190826121215j:imageあの雲が何に見えるか喩えてよ、お気の済むまで聞いているから

夕立が変えることなどない未来  奪い去るには足りないわたし

灰色が傷つけてきた雲の下  焦げついた陽と昼の葬列

どうしたって近づくことはない だから巻き込むことしかできないの、風

優しさも悪意も等しくかき混ぜて  出来た匂いを雨と呼んでる

缶ビール 父の写真を飾り付け 生きてる証に変えてゆける?

Fantôme

生と死の狭間をたゆたっていくように、境界をぼかしていくグラデーションのような陽射しの夏の日、迎え火のようにゆらゆらと揺れる街燈が墓標のごとく並ぶ午前3時。生き抜いた蝉の残骸が散らばっていて、蜃気楼に近い生命のうねりが押し寄せてくる。

半袖のワイシャツの袖を折るのが癖だった人。折りたたんだ清新な白さが、涼しく吹き付ける風が、彼女を優しく包み込んだ。

あまりに言葉が足りなさすぎる、最近のゆらゆらと続いていく日常に併走していく形で、あれよあれよと気持ちを結びつけたりするのだけど、どうにも矮小なものに見えてきて進まない。端的に言えば、自己肯定感が低い。

痛みの分割払い

苦手ではないけど進んでやりたくもないことを重ねていくことは、結構心身を蝕んでいくものだと思う。

特段苦手なわけではないから、どうにかやれちゃう気がするし実際やれてしまうのだ。だけどそれをやっている自分を改めて見つめ直したときに、小さな違和感が積もり重なっていく。

じわじわと続く痛みを分割払いして、痛みの小さい一瞬を重ねて過ごしていくのが得意な人は、少しずつ狂っているモノに対して目隠しをしてやり過ごしていくことを重ね、やがて自分自身が追い込まれていることに気付きづらくなってしまう。それはもう幼い頃から、好きでもないことも出来ることが美徳だと思わされてきたからだ。

 

俺で言うと「社交的でいること」が苦手ではないがそんなにやりたいことではない。人脈という言葉を聞くと相変わらずモヤっとしてしまうし、何かの目的が先行して人に会いに行くという行為がどうしても苦手で、初対面の人相手には自ずと社交的にならざるを得ない。そんな無理している自分を知っているから、進んでやりたいとは思わない。

例えば自分から交友関係を広げに行こうとはしないし、4人以上の会話になると進んで話したいとは思わなくなる。なぜ大人数が好きじゃないのだろうと考えると、好きな数字とか文字とかの話を吹っかけづらいからだ。こういった話が好きなのはその人がどんな風に周囲を見つめて考えているのかが分かりやすく見えてくるからである。ちなみに俺は29が好きです。

趣味の話もいいんだけど、趣味の場で出会った人は何となく趣味以外の話をどうやればいいか分からなくなるから難しい。ましてや趣味に関する知識のマウントを取り合うのは本末転倒だ。

 

今までと変わらない毎日を少しずつ積み重ねていくだけでも輝かしくて讃えられるべきものだと思うから、留学だったり面接だったり変化を進んで選んでいく人たちは尚更大変だろうと思うし、その心の強度は凄いと思っている。尊敬している。

変化というものは心の強度が必要だから、痛みを感じて当たり前だし、痛みを感じるのは弱いということではない。強い/弱いという尺度は概して強い側が持ち出しているものだ。

その痛いという感覚は、どれだけ細かく切り刻んでも見えなくなるわけではないし、見えなくなるべきものではない。その痛みの感受性こそが、誰かに与えられる優しさと呼べるものの源になっているから。

 

だから、誰かに与える分だけ自分も大切にしてほしいと思う。負けるななんて言わない。ちゃんと逃げられた自分に満点。

正しさがガラクタになるとき

このブログもおかげさまで一年くらい書いているが、書き始めた頃の記事にこういうものがある。

要約すると「理性が感性の領域へと侵食する危険性」について書いたもので、今読み返してみると初っ端から自分の思想ぶっ飛ばしてるなと思いながら、結局一年経っても根幹となる考え方は変わりようがなかったし、最近の世間の動向を見ていると、こちらもどうにも何も変わっちゃいないと思わざるをえない。

 

世紀末だなと思える事件やネット上での騒動が多発している。旧態依然が見直され、因習が絶えず問い直される時代になっている。各々がそれぞれ必要だと思っている情報が「シェア」されることで氾濫が止まらなくなっている。

SNSという便利な技術は「自分なりの理性」を振りかざして、素材のままでパイ投げのように相手の顔に投げつけることを容易くした。そこでは、相手に「届けよう」とする配慮を重ねることを丸ごと無視してしまった「毒舌」という名の怠惰がまかり通っている。画面越しに一人の人間が居るという意識を丸ごと欠いてしまった言葉が飛び交っている。

まとまった文章を書く人は俺を含め大概が嘘つきである。煮えたぎった感情のまま皿に放り投げたらグロテスクが過ぎるから、無理やり美味しくしようと言葉で味付けしてとりあえず人が見られるものにする。そこには幾重にも重なるラッピングが施されていて、一瞥しただけじゃ真意が見えないように加工することが出来る。

140字はラッピングには足りないのだ。あまりに暴力的過ぎるのだ。

呼吸をするように断片的な文をリリースすることで自分の思想をチラ見せすることができる。チラ見せのための手っ取り早い方法は、仮想敵を作り出して叩き潰すことである。

140字を相手の悪いところへの言及に尽くせば、自分自身を差し出さずに済む。何かを叩きのめすことでその反転像としての自分を受け取り手に読み取らせようとする。比較を連発し「敵であるそちら側」にいない自分をシーソーの軽い方みたいに上昇させる。こうした態度は「自分はそう考えていない」という否定文の連続であり、否定に否定を折り重ねた砂上の楼閣に自身の虚像を浮かび上がらせる。

説明を放棄することは、コスパの良い怠惰である。ただの怠惰であるはずなのに、あえて言葉を尽くさないままでいることで、大きなものがそのベールの裏に隠れているかのように振る舞うことができる。性質の悪いことに、意味深なガラクタは大量に置き土産にすることができる。自分も答えがわかってないのに「これは宿題ね」と言い放ち、ぬくぬくと自分の世界に閉じこもる。周りが勝手に宿題に対して色々と回答してくれる。こうしてちょっとずつ怠惰の共犯者を増やす。

 

世界のあらゆる出来事に言葉が足りていないと感じる。足りていないとは文字数の意ではなく、ちゃんと受け取り手を想定した言葉の数である。概してそれは後出しジャンケンでは満たされない。毒舌や冗談で済まされるならその舌に用はないからさっさと毒を塗ってしまえ。

短さは正しさと等価ではない。公式に落とし込めない事象の数々をより短文で言い表すたびにこぼれ落ちた例外の数々への想像力がどんどん腐敗していく。短文はわかりやすい。刺さりやすい。だから傷つけやすい。

そして正しさが自己修正能力を失ったとき、糾弾の照準が不適切に拡大される。到底理性を注ぐべきではない他人の感性の領域に立ち入り始める。自分の毒舌が自分を気持ちよくさせる以上の意味があるのかを考えてから言葉を綴らない限り、共犯者と被害者は増える一方だ。

 

こうした自己チェックが面倒ならば、もう自分を主語にした肯定文を書き続ければいい。「何が好きなのか」を並べるだけでもその人の価値観の体系は浮かび上がってくるはずなのに、どうして否定文を並べたり比較したりすることでしか自意識を解放できないのだろうか。反転像ばかりでは自身の像が歪んで見えてしまうことになぜ気づかないのだろうか。

肯定を積み上げたい。

まぎれもない自分を主語にしただけで、それは究極に輝かしい。述語が普通だっていい。述語の特別さで優劣をつけるのはもうやめにしよう。

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