ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

痛みの分割払い

苦手ではないけど進んでやりたくもないことを重ねていくことは、結構心身を蝕んでいくものだと思う。

特段苦手なわけではないから、どうにかやれちゃう気がするし実際やれてしまうのだ。だけどそれをやっている自分を改めて見つめ直したときに、小さな違和感が積もり重なっていく。

じわじわと続く痛みを分割払いして、痛みの小さい一瞬を重ねて過ごしていくのが得意な人は、少しずつ狂っているモノに対して目隠しをしてやり過ごしていくことを重ね、やがて自分自身が追い込まれていることに気付きづらくなってしまう。それはもう幼い頃から、好きでもないことも出来ることが美徳だと思わされてきたからだ。

 

俺で言うと「社交的でいること」が苦手ではないがそんなにやりたいことではない。人脈という言葉を聞くと相変わらずモヤっとしてしまうし、何かの目的が先行して人に会いに行くという行為がどうしても苦手で、初対面の人相手には自ずと社交的にならざるを得ない。そんな無理している自分を知っているから、進んでやりたいとは思わない。

例えば自分から交友関係を広げに行こうとはしないし、4人以上の会話になると進んで話したいとは思わなくなる。なぜ大人数が好きじゃないのだろうと考えると、好きな数字とか文字とかの話を吹っかけづらいからだ。こういった話が好きなのはその人がどんな風に周囲を見つめて考えているのかが分かりやすく見えてくるからである。ちなみに俺は29が好きです。

趣味の話もいいんだけど、趣味の場で出会った人は何となく趣味以外の話をどうやればいいか分からなくなるから難しい。ましてや趣味に関する知識のマウントを取り合うのは本末転倒だ。

 

今までと変わらない毎日を少しずつ積み重ねていくだけでも輝かしくて讃えられるべきものだと思うから、留学だったり面接だったり変化を進んで選んでいく人たちは尚更大変だろうと思うし、その心の強度は凄いと思っている。尊敬している。

変化というものは心の強度が必要だから、痛みを感じて当たり前だし、痛みを感じるのは弱いということではない。強い/弱いという尺度は概して強い側が持ち出しているものだ。

その痛いという感覚は、どれだけ細かく切り刻んでも見えなくなるわけではないし、見えなくなるべきものではない。その痛みの感受性こそが、誰かに与えられる優しさと呼べるものの源になっているから。

 

だから、誰かに与える分だけ自分も大切にしてほしいと思う。負けるななんて言わない。ちゃんと逃げられた自分に満点。