ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

EMANON

昇降口の扉をガラッと開けたときの、こもったような匂いと、冬の朝に散らばっている埃と、弾けたような一筋の光。名前のつけようもないスナップ写真みたいな一瞬が、パラパラとこぼれながら続いていく。きっと切り取られて初めて写真と気づくような、壊れそうな繊細さを持って、私たちの前に迫り続ける。

もう何年も、もどかしく思っている。こうした景色がぼんやりと頭の中を巡り続けるのだけど、上手く言葉にできない。名前をつけることができない。

もしくは、言葉にすることを避け続けているのかもしれない。

言葉にするのをサボらないこと、生涯大切にしていきたい私の座右の銘だ。言葉にすることで自分しか見えていなかったものを誰かに分かってもらえるかもしれない。イラストを描くことはできないから、足らぬ言葉を尽くして輪郭を描き出すことしかできない。輪郭を持ったものは生命が吹き込まれたように動き出してくれる。あとは、その動きをつぶさに記していくだけだ。そして、はっきりとした形を持ったそれは、私の記憶の中にずっと留まってくれる。

だけど、形をはっきりと作りたくないものが、生命を吹き込まないでおきたいものが、私の中にあるのだと思う。

言葉は、共有されているツールだ。仮に私だけしか意味を解さないような表現手段を用いたとしても、一瞬のうちで忘れ去られてしまう。私の頭の中に描かれている景色を「ホニャホニャムヒャラフー」と名付けることを私が了承したとしても、誰にも理解されないまま、ご乱心としか捉えられないだろう。

でも「ホニャホニャムヒャラフー」を、そのまま「ホニャホニャムヒャラフー」として留めておきたくなることがある。言語化して皆に分かりやすい形で差し出すことは、すごくリスキーなことでもある。子どもを初めて一人でおつかいに行かせるような。自分の家の中に留めておけば、世間の冷たい風に晒される心配はない。まだ取っておこう、まだ取っておこう。こうしている間に時が経ってしまった。

今年は、できるだけ色々なものに対して言葉をつけていけるようにしたい。言葉をつけるとき、その物事に真剣に向き合う必要がある。いつ何があるか分からない今、目の前と向き合っていこう。