ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

今、その痛みは自分だけのもの

f:id:SouthernWine29:20190925233907j:image

夕立が降った後の、街を丸ごと洗った匂いが満ち始める時間。日常の生活においてもそういった時間があるように思う。雨が全てを拭い去り舞い上がった空気の粒が光と輪郭を伴って空の中で大きく弾けるとき、頬には清新な風が吹きつける。まるで街全体に風穴を開けてしまったように。

残念と言うべきか喜ぶべきか、衝撃的で情動的な夕立が人生においては何回もやってくるもので、それは到底予見できなくて、カメラにも収められるものではない。10年後には忘れ去ってしまうような、そうした風穴が開く瞬間が、変化と呼ばれる時なのかもしれない。

どうしたって出会いと別れが繰り返される人生で気に病んでしまうのは、失ったものと得てしまったものを天秤にかけたときのその傾き方であり、どっちに傾きすぎても憂いは尽きない。

何が自分の中で事件になるかは自分の心の中の天候状態で変わってくるものだし、同じ雨でも恵みにも災いにもなる。獲得と喪失、どちらかに傾いたら勝ち/負けなのではなく、常にバランスを崩すことを恐れるのが人間の心の中の天秤なのだ。常に両者は裏表の関係であり、何かを犠牲にすることで初めて得られるものがあるならば、天秤のバランスは保たれる。こう考えると喪失もネガティブな意味ばかりを持つものではないのかもしれない。裏を返せば、何かを得ることは何かを手放すことに他ならないのかもしれない。

 

「今の悩みも数年後からしたら綺麗さっぱり忘れてしまっているよ、現に数年前の自分の悩みなんて忘れてしまっただろう?」という類の言葉をよく聞く。紛れもない事実だと思うし、悩みに対する一つの乗り越え方であるように思う。

けれども、今の私からしたら今の悩みは何よりも重大なことであるし、後になったら忘れてしまうからという考え方は、後になったから言える話なのであって、今の私にとってはひどく辛く思えるのだということが忘れられてはいけない。不確定な未来から現在を眼差す想定をすることで、現在の自分の感性を意図的に歪めてしまうのはとても危険であると思う。例えば、自分が火傷をしてしまっても「未来には治ってるから」とその傷を放置するのと同じだ。

先日、こんなエッセイを書いた。人生において起きる様々な物事を記述するにあたって、完了形と進行形の二つの形式があり、進行形が覇権を握りすぎていることに対する警鐘を鳴らし、完了形を守り続けなければならないといった趣旨のものである(夜間移動と実況中継 - ノートの端っこ、ひこうき雲)。

今回の場合で言うと、後から当時の苦しみを振り返る態度が完了形で、今の自分の苦しみを真正面から受け止める態度が進行形だと言える。

私がこのエッセイを書いた動機は今回とは異なる。到底瞬間的なスパンでは捉えられないような重大な行為(たとえば進路に関すること)や社会問題について考える際に、あまりにもその場限りで感じた「印象」だけで所感を記してしまうのは、後から振り返る姿勢を失わせて視野が狭くなってしまうという危惧があったからである。

今回のように、私的な領域における痛みについては話が変わってくる。自分の悩みに対して舵を取るべきなのは今の自分なのであって、未来の自分の完了的視点ではないはずだ。

あなたが持っている痛みはあなただけのものだし、誰か(あるいは俯瞰している自分)が持っている尺度で事の深刻さを測るものではない。

 

天秤の話に戻ると、確かに何かを得ることと失うことはバランスを保ち続けようとするものだけど、両者は同時に起こるとは限らない。むしろかなり時間を置いてから起こることの方が多い。

様々な苦しみや痛みが結果として何か気づきをもたらしてくれるにしても、そこにはタイムラグがあり、下手したら数年以上かかるものである。この間の数年間は、自分の心の中の天秤がずっと喪失の方に傾き続けているのだ。

自分が今直面している痛みの「解釈」は、天秤が均衡を保っているか余裕があるときに行えばいい。何も今の自分の感受性まで犠牲にして、未来の自分に解釈を託す必要はないのだと思う。

夕立の後には必ず晴れ間がやってくる。そこでかかる虹はとても綺麗だし、そうした虹に思いを馳せることはとても素敵なことだと思うけど、だからといって今自分に降りかかっている雨から自分を守ることが蔑ろにされるべきではないと思う。

今、自分に降りかかっている雨がどういう意味を持つのか、雨に打たれながら考えなくたっていい。まずは傘を差したり大切な人の家でゆっくりお茶でも飲んだりすることの方が優先されるべきだと思うし、雨の間くらいゴロゴロしてたって良いんじゃねえかなと思う。

逆に言えば、ずっと晴れ間が続いているときは、雨に打たれている誰かに差し出せるような傘や、いつでもその人が帰ってこれるような家や、冷えた体を癒す温かいお茶を用意できたらもっといいなと思う。天秤は均衡を保とうとするから、何かを得ることは何かを手放すことに他ならないかもしれないけれど、そしていつか豪雨が自分を叩きつけるかもしれないけれど、晴れているうちから手放さなくたって、天秤は怒りはしないんだから。

 

今回も綺麗事を書き続けているとは思っている。俺のブログは概してそういうスタンスだということはもう分かっていただいていると思う。でも、綺麗事だからこそ都合良く遠慮なく使って欲しいと本気で思っているし、こうして言葉で綺麗事を残し続けることの意味はそこにある。俺は俺なりの傘を揃えているのだ。それは使い古されたビニール傘かもしれないけど、気に入ってもらえないかもしれないけど、ちゃんと雨を防いでくれる自信は、ないわけじゃない。

 

痛みにも悩みにも貴賤はない。周りにどれだけ陳腐に見えようと、苦しむ本人にはそれが世界で一番重大な悩みだ。救急車で病院に担ぎ込まれるような重病人が近くにいても、自分が指を切ったことが一番痛くて辛い、それが人間だ。

レインツリーの国有川浩