ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

「社会不適合者」

 新しい文章を書くことが出来なくなっていた。その理由は、近頃の急速な社会変動の中で、安易に言葉を書き連ねることが出来なくなっていたからというのと、ちょうどこの記事が私の書いた文章の100本目だからである。100本目に相応しいものを書こうという気概が、なかなか生まれなかった。

 正直本当に100本も書いたのかと驚きの気持ちでいっぱいだし、同じようなことしか書いてねえだろという揶揄も飛んできそうな気がするが、無理なく続けてこられたのだから、おそらく私は文章を書くのが好きなんだろう。そりゃ同じ人間が書いてんだから同じようなことばっかり書くよ。

 書くことは好きなのだけど、怖い気持ちもずっとある。筆を止めていた約3ヶ月のあいだ、ほんとうに色々なことが起きた。社会でも身近でも。自分自身の心の中が揺れていたことを痛感している。揺れている中で、文章を書き残すことには怖さがあった。本当はこんな時こそ書き残しておくべきだと思いつつも、意図的に自分の気持ちをアウトプットしない日々が続いていた。

 

 まず、Twitterを見られなくなっていた。正しい情報を得られないのもあるが、正しさが暴力に変わり、優しかった人が牙をむき始めているような気がした。

 「自粛警察」の往来。営業を続ける店の前に貼り紙を貼るのはかわいいもので、プライベートなちょっとしたお出かけもSNSにアップできなくなったんじゃなかろうか。「地獄への道は善意で舗装されている」のだと思い出す。いまやオンラインでも道は舗装できる。

 匿名の誹謗中傷についても大いに話題になった。正しさが自分の側にあると思っている人の言動の恐ろしさについては周知の通りだし、私も何回もブログで書いている。感染症が広がる前からずっと社会病理として存在していた「正しさ」の病が、今回を機に表に出てきたんだと思う。元から地獄みたいな場所だったけど、太鼓の達人の「おに」モードみたいなノリで、地獄がコロっと鬼地獄に変わっていた。

 少し感染症が落ち着いて、正しく恐れるようになって、私自身の心の揺れも落ち着いてきた。そして今この時である。改めて腰を据えて文章を書くモチベがやっと出てきたので、ずっと自分の中で引っかかってきたことについて改めて掘り下げたいと思う。

 

 前に自分の進路について話していたときに、知人から「社会不適合者」という単語が飛び出してきたことが、何故だか頭を離れない。私の進路に向けて放たれた言葉なので、まず知人の道徳観を疑うが、その件は措いて、そもそもこの知人が想定していた「社会」とは何なのだろう?と、思わざるを得ない。

 現に今「社会」は揺らぎまくっている。ちょっと前まで「不適合」であったはずのひきこもり生活は、このたびめでたく正当性を得た。規範や道徳は時代に即して形を変えていく。少し前までの正当性は今やもう通用しない。そんな揺らぎやすい規範意識の上に立って、他人の生活をジャッジメントできるのだろうか。

 よく言われていることだが、逸脱者を見つけることは気持ちが良い。「自分は逸脱していない」という安心感を得られるし、逸脱者を罰することで自分への報酬が頭の中で与えられるからだ。

 不適合者は、逸脱者ほどの積極性を持ち合わせていない。わかりやすく罪を犯しているわけでもなく、少しだけ社会から身を引いている人も多い。ごく少数の者、あるいは誰にも迷惑をかけていない不適合者もたくさんいるだろう。今ほど情報を得る手段が多様化されていなかったときは、わかりやすい逸脱者がピックアップされた。世界を震撼させた犯罪者が登場すれば、誰もがその人を憎めるから、ある種の安定感があった。

 それに対して現代は、自分なりの「社会」にそぐわない人を、近隣あるいはSNSの中から引き摺り出して叩くことも可能になった。誰もが誰かにとっての「逸脱者」と見做される可能性が生まれた。自分なりの「社会」をパブリックに対して拡大解釈することで、その小さな「社会」から溢れ出る人はたくさん出てくるだろう。

 自分が自分なりの「社会」に参加できることは当たり前である。極端なことを言えば、自分なりの「社会」の「不適合者」には、自分以外の人間すべてが該当する。

 極論になってみて改めて気づかされる。目の前の指先に広がる「社会」が、社会の全てであるはずがないということに。

 

 自分の「社会」から離れて考えてみる。

 

 社会適合を、社会参加の度合いだと仮に定義することもできる。そうすると、社会に積極的に関われる理由は何だろうという問いが生まれる。消極的な社会参加を排除できる理由は何だろう。

 社会に用意された椅子は、人の数と同じではない。全ての椅子が同じ座り心地のはずがない。参加しないのではなく参加できない人がいる。椅子取りゲームの舞台に乗れない人がいる。

 それを不戦敗とみなすか椅子の数を増やすか。誰が椅子を運ぶのか。自分が適合できた理由を顧みないことには、「たまたま不適合じゃないだけなのでは?」という疑念が拭い去れない。

 

 「社会不適合者」という言葉一つを取っても、これほどにたくさんの問いが生まれる。

 他人に対してレッテルを貼ることに、もう少し慎重を期すべきなのではないか。ここまでに書いてきた問いは、社会構造が安定している時にも繰り返し問いかけるべきものであるが、構造が大きく変わろうとしている今こそ、改めて問い直す価値のあるものではないだろうか。

 今まで不適合と見放されてきたものが、社会の裂け目から声をあげるとき。その声に耳を傾けることができるだろうか。アップデートの激しい情報に対して、指先で道徳的な判断を行う前に、一呼吸置いて自分の内なる価値観との対話を行う姿勢が求められている。

 

 名前の知らない誰かの投稿。自粛生活の中で家族との衝突が絶えない、そんな愚痴のような内容。自分の指がアドバイスを送りたくなる前に立ち止まって考える。過度の適合の要求は、暴力だ。