ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

青春はおでんとアイスを蛇行する

「帰りにコンビニでアイス買って食べよう」が「おでん買わない?」に変わるのを3回繰り返していたら、あっという間に僕たちの帰り道はバラバラになってしまった。アイス、おでん、アイス、おでん、アイス、おでんで卒業。3年間って、こんなもん。0歳から3歳になるのも同じ3年間のはずなのに、アイスとおでんで考えるとこうも短く感じるものなのかと驚く。

アイスは夏。当たり前である。白いワイシャツとカラフルな氷菓子のコントラストは高校生の特権。炎天下、楽器を吹いた後に頬張るアイスは、赤色の絵の具に黄色を混ぜたようなオレンジ色の宝石に見えた。楽器を吹いたと言っても俺はタンバリン叩いてただけだけど。

夏休みが明け、ボロい校舎の隙間から寒気が差し込んでくる頃、コンビニのレジ前におでんが登場する。いつも大根とこんにゃくを頼んで柚子胡椒をつけた。受験勉強をしていた冬の僕の誕生日に大盛りのおでんを貰ったときは飛ぶように喜んだものだ。

夏と冬を代表する食べ物なだけあって、アイスとおでんで3年間を語り尽くせてしまう。この二つの食べ物を中心に僕の青春は回っていたのかもしれない。

ところがある日、真夏のセブンイレブンの前を通りかかったとき僕は目を疑った。「おでんセール」と書かれた幟が立っていたのだ。つまり夏のコンビニでおでんが売っているという事実を目の当たりにした。そんなのありか。冬の食べ物が夏に侵食している。冬が夏を圧倒している。アイスとおでんの間を振り子のように往き来していた僕の3年間が、時空が、歪んでいくように感じた。青春の歪み。

しかし、考えてみると「雪見だいふく」という神の食べ物の存在が既に歪みを抱えていた。冬に食べるアイスの代表格として君臨している雪見だいふく。冬にも夏の食べ物が侵食していたのだ。

「アイス→おでん→アイス→おでん→アイス→おでん」という単線構造だと思っていた僕の高校時代は、どうやらもっと複雑なものであったらしい。夏と冬を行き来しながら蛇行していく青春。そう、青春とはグネグネと何度も廻り道もしながらそれでも確実に前に進んでいく日々の連続なのだと思う。

「○○くんって好きな人いるの?」「いるよーわりとすぐそばに」「へーどんな人?」「んー鈍感だけど素直でわかりやすい人かな」「えーだれだよ!」「わかんないのか笑」

的な会話もすごく回りくどい!結果は見えているのになかなか伝えようとしない彼らの会話に「アイス⇔おでん間グネグネ」の真骨頂が見えます。こんな会話したことないけど。

最小限の労力で最大の利益を享受することに奮闘し、夏におでんを食べるなどという非生産的なことをしない。歳を重ねるにつれてだんだんそういう生き方にシフトしていることに気づいた。

でも、それって誰にでも出来るだろと思う。夏にアイスを食べることなんて誰にだって出来る。誰にでも出来るようなことに追随していては老いていくばかりである。若さとは、自分がどれだけ無駄な時間を費やすことができるかの勝負であり、ノートの隅っこに無駄にクオリティの高いパラパラ漫画を書くような瞬間であり、数年越しに思ってきた人にこっぴどく振られる失恋をすることであり、夏に山盛りのおでんを食べることではないか。

好きでやっていることにこんな口を挟む人がいる。

「もっと広い世界があるんだよ。自分は自己満足で終わりたくないからもっと高みを目指すんだ」

書いているだけで胃もたれがするようなカロリーの高い宣言であるが、好きで自己満足をしている人に無駄だと横槍を入れるその行為こそ無駄。青春なんて自己満足である。誰に評価されるでも見せるでもない。黙って青春していればいい。おでんで一番美味しいのは餅巾着だろと俺に言っても無駄。おでんといえば餅巾着という発想は「おでんくん」に縛られているだけだから鼻で笑ってやればいい。

こんな文章を書いている深夜、熱々の大根を頬張りたくてウズウズしている。誰か俺におでんを買ってください。

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