ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

霜降

窓ガラスに浮かぶ雫が秋を運んできた夜、白灯に包まれたレモンティーを飲みながら、僕は机に向かっていた。視線の先には二枚の紙切れが置かれている。手書きの文字が今にも踊り出しそうに書かれた手紙の、その行間に詰められたいたずらっぽい笑顔が思い出される。

久しぶりに卒業アルバムを開くと、心の隙間に突き立てられていたナイフがまた少し身体の内側に切り込んできた。決まったページに挟まれている二枚の紙。僕の真ん中に今でも置いてある時限爆弾が爆発したように、感情を塞き止めていたものが壊れてしまったようだ。

 

僕と彼女は年に一回、小さな手紙を渡しあっていた。誕生日がとても近かった僕たちは、お互いの誕生日が近づく冬に、いつもは到底書けないような長めのメッセージを載せて、怪しい取引であるかのように交換し合う。

彼女はよく笑う人だった。他の人なら見過ごすような小さな笑いの種を見つけるのが天才的に上手な人で、話し下手な僕は彼女のそういうところに何度も救われていた。

高校一年生の春、同じ部活に入った僕と彼女だったが、最初の頃の記憶はほとんどないに等しかった。いつの日からか、昔からの仲だったかのように打ち解けあって沢山の話を交わし始めたことをよく覚えている。部活の始まる前の教室や、荷物をロッカーにしまう休み時間の廊下とか、一瞬に会話を詰め込んでいたのが僕らで、でもそういう瞬間瞬間に隣に居られることが凄く誇らしくって、多分後から見直したら間違いなく最初に思い出すような時ではないのだろうけど、どこを切り取っても彼女は側にいてくれるような、そんな気がしていた。

誕生日が近いんだねってわかったときも、彼女はそんなことで笑い出して、「なんか面白いね」って、何が面白いのか一ミリも伝わらないような言葉を残した。でもそういうところに救われていた。

こうして、高一と高二の誕生日が訪れる冬、僕たちは誰も知らない小さな手紙を交わした。彼女の書く文字が好きだった。彼女の言葉選びが好きだった。

 

だけれど、その手紙は二枚で終わってしまった。

三枚目をもらうはずだった冬、彼女はいなくなった。詳しくは聞いていないけど、家庭の事情などが色々重なった結果、18歳になる前に、彼女は僕の世界からいなくなってしまった。

昔の小説だったら永い別れとなるところだが、我々にはスマートフォンがあった。彼女とはいつでも連絡を取ることができる。当然何があったのか教えて欲しいという連絡を送ったが、連絡が一向に返ってこなかった。プロフィールが更新されることもなく、彼女の周りだけ時間が止まってしまったようだった。

よく笑っていた彼女がどんな表情をしているのか、この時はわからなくなった。突然連絡をよこさなくなるなんてふざけないでくれよ、と怒る権利も僕にはなかったのだけれど、それでも心がいっぱいになるくらい悩む権利が自分にはあると思った。結局、世界は自分とその周りの人々で出来ているから、たった一人の人間の不在が地球の自転を狂わせるような感覚だ。自分でもどうしてこんなに一人の人間に対して執着できるのか分からなかったが、思っていれば報われるというものでもなく、あっという間に僕の誕生日も過ぎ去ってしまった。

 

僕という人間は機械とでも呼べばいいのか上手く作られているから、こうした晴れないモヤモヤがあってもどうにか大学に進学することはできる。自分の人生を棒に振るくらい悩むことが出来ないのが救いでもある気がするし、ちょっとだけ失望している気もする。受験勉強から解放されて、春の陽射しが桜を咲かせ、遊びという遊びに呆けていた頃、不意打ちのように一通の連絡がスマートフォンに届いた。

「おめでとう」というタイトルから綴られた長文を予感させる通知は、よく晴れた日の電車に腰掛けた僕の背中を震わせた。間違いなく彼女の名前で送られた文章に、何が書かれているのか。ずっと押入れに入れていた段ボールを開けるように、その通知を開いた。

 

いつもと変わらない筆致で進められた彼女の文章は、僕の誕生日祝いが遅れたことを詫びる内容から始まった。そして、彼女も無事に18歳を迎えたことと、春がやってきて気持ちが晴れやかになったことも話していた。

どうしてこんなに連絡が途絶えていたのか、その間に彼女は何をしていたのか、これから何をするのかなどについては、一言も書かれていなかった。まるで過去と未来を切り落とし、現在という時間だけを切り取って書かれたような閉鎖的な文章が、僕に違和感を抱かせた。春についての話だって、言ってしまえばいつでも書くことの出来るような内容に終始していた。

彼女から来た久しぶりの連絡は、卒業証書や集合写真よりも、何よりも、僕の高校時代からの卒業を告げているようだった。

彼女は多分、もう未来を見ている。僕の誕生日祝いを忘れたのだって、プロフィールがずっと更新されていなかったことだって、彼女が夢を叶えるために頑張ることに夢中だったと考えれば全て説明がつくことだ。たった二年間の文通に囚われていたのは僕だけだったのだろう。僕だけが昔に囚われて、当然それが今年も続くと思い込んでいたのだ。

だからもう、何も返信をすることができなかった。過去の思い出の一ページに捕まえられてしまった僕は、散っていく花びらのように二度と時間を戻すことはできない。地面に落ちた花びらは、もう桜としての時間を取り戻すことはできないのだ。

 

卒業おめでとう。

卒業アルバムを開いてからどれだけの時間が経っていたのだろうか。レモンティーに反射しそうな月の光だけが、時間の経過を教えてくれる。

投函されるはずだった五通目の手紙をそっと空で描く。ティーンエイジャーではなくなる君に、言いたかった言葉を少しだけ綴って、しんと冷えた月に向かって、紙飛行機のように投げ飛ばした。

部屋に入ってきた風が、少しだけ笑っているような気がした。