ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

暑いのに社会に物申している人は信用できない

今年の夏は酷暑である。外に出れば無料でサウナが楽しめるよ!ってくらい暑い日々である。

照りつける日光に頭が沸騰し、モノを考えることもままならない、そんな夏だ。

空を飛ぶ鳥もこれじゃあ焼き鳥になるだろうなと思いつつ、クーラーの効いた部屋で焼き鳥を食べながらスマホTwitterのタイムラインを流し見していると、あらゆる社会事象に物申しているツイートが散見された。ニュース記事を引っ張ってきて自分の考えを表明したり、誰かの物申しツイートをリツイートしたりいいねしたり。Twitterの中でも議論が白熱しすぎており、私に避暑地などなかった。

 

このような類のツイートの存在自体を否定したいわけではない。何をつぶやこうがその人の自由。Twitterで意見を表明したい人だっているのは分かっている。

けれども、こんな暑い日に社会に物申すツイートをする人はちっとも信用できない。そんな強く言うか?と思われるかもしれないが、暑い日くらいは自分の身や自分の大切な人が元気に暮らせているかどうかに意識が傾くべきなのではと私は思っている。命に関わる暑さと言われている日に自分のことではなく社会のことに意識が向くような、その「感覚麻痺状態」が私は怖い。

隕石が迫ってこようがスカイツリーが崩れ落ちようが突然の氷河期を迎えようが2000年に一度の流れ星が流れようがその人は政治と社会に物申しているだけでちっとも自分の身を案じようとしないのではないか。麻痺しているから。

 

たしかに物申されるべき事象は山ほどある。暑いから思考停止したいと言っているわけではない。暑いのにちゃんと社会について考えられるその思考の体力には頭が上がらない。

しかし、暑い日に大切な人への言葉を考える前に物申しツイートを練っているようでは、それは異常だとしか言いようがない。大体、そんな意見表明なんて誰かがやっているし誰かが考えていることの焼き直しなのだから、自分にしか書けない言葉を誰かに届けることを優先して当たり前だと思う。

 

暑いときにちゃんと「暑いね」と言える人、言ってくれる人がいてくれることの幸せ。こんなに暑い日は、その幸せを感じる日にしてもいいじゃないか。