ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

先日、部屋を掃除したときに、本棚に置いてある小さな紙袋の存在を久しぶりに思い出した。その袋の中には、お菓子の箱がいくつか入っている。何の変哲もないお菓子の箱が、宝箱に変わった瞬間のことを思い出した。

 

高校時代に私が所属していた部活は、誕生月の部員に向けてサプライズを仕掛けるという素敵な文化があった。8月だったら、8月生まれ以外の部員にサプライズの内容が書かれたメールが届く。秘密裡に、その通りに決行される。

「今月の誕生日サプライズはありません」という偽のメールを、間違えて本人にも送ってしまったフリをすることでガッカリさせておいて、実は本当のメールも本人以外にはしっかり回っているという、かなり凝った回もあった。

私も例に漏れずお祝いしてもらった。12月の定期コンサートが終わった日。12月生まれは4人いたのだが、歴代最高レベルで凝っており、なんと二段階のフェイクの後にお祝いされたのだ。まず4人のうち1人への、その後に私以外の2人へのサプライズの内容が書かれたメールが送られてきた。まさか私だけ忘れられてるのではないか、という不安を抱えたまま当日を迎えたが、その日3回目のサプライズにまんまと出迎えられた。クラッカーを喰らったときの衝撃と安堵感たるや。

 

その時にもらったお菓子の箱が、いまだに捨てられない。油性ペンで走り書きされたおめでとうのメッセージの手触りも、私が死んでから灰になってくれればいい。

 

手書きはやっぱり良い。刻むように書かれた一画一画から、思い出が突き刺すように飛び出してくる。

その人の手書きの文字は絶対に他の人には真似できない。どんな写真や思い出の品よりも、その人が刻み込んできた文字が、たしかにその人がそこに生きていた証として残されている。

だから、いつまでも取っておくだろう。もう誰かの思い出の中でしか生きられなくなってしまった人に向けて。

手帳の一ページ目の彼の文字が、二度とは来ない春を予感していた。思い出と共に光り続けろ。