ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

フローズン・カメレオン

多数決をとりますって言って、皆が目を伏せて挙手するやつ、あったと思う。でも結果を集計する人は、誰がどっちに手を挙げているか分かるわけで、僕は怖かった。自分一人だけが挙げていたらどうしようって怖かった。

 

学校の夏休みが終わった9月、「運動会のスローガンを決めたいと思います」と色黒の体育委員が言う。陽差しの差し込む黒板には、僕が出したスローガンが最終決戦として残されていた。

子ども時代に書いたものだから、今思い返すと「なんじゃそりゃ」と思えるような文句だったが、僕のスローガンはそれなりにキャッチーで皆の心を掴んだらしく、最終決戦まで残ってしまった。

 

さあ、目隠し多数決の出番だ。怖い。ここまで残ったのはいいけど、正直相手のスローガンはかなり素敵。キャッチーだし、何より力強さと爽やかさがある。俺のスローガンはインドア的な陰鬱さが滲み出ている気がする。俺が運動会というキラキライベントを標榜する文言を掲げて乱入していいものなのだろうか。異教徒として磔にされてしまうのでは?

 

しかしまあ、残ってしまったものは仕方ない。

俺だけ俺のスローガンに挙手して大敗したら惨めこの上ない。でも、ボケっとしていたら筋骨隆々の体育委員にしばかれてしまうので目を伏せるしかない。

 

順番的に僕のスローガンが先に投票される。体育委員が僕のスローガンを読み上げる。物音がしない。みんな忍びのように手をサイレントに挙げるのが上手いのか、それとも誰も挙げていないのか。怖い。こんなの僕も挙げられるわけないだろう。

 

続いて決戦相手のスローガンが読まれる。やっぱ物音がしない。みんな生きてる?顔を上げたら教室が血の海と化していた地獄絵図とか嫌だぜ。

 

僕は僕のスローガンに投票していないのだから相手のに投票するしかない。いやでもそれっておかしくねえか。生みの親が支持していないスローガンなんて不憫極まりないだろう。スローガンが泣くぞ。一体誰が僕のスローガンを全肯定してくれるって言うんだい。何のために生まれたんだって三日三晩泣きじゃくるぜ。

 

しかし、結局逡巡している内に投票時間は過ぎてしまった。

 

投票数を足してもクラス全員の数にならないことを訝しみながらも、体育委員は持ち前の豪傑さで投票を終わらした。選ばれたのは相手のスローガンだった。ふう危ねえ。僅差とは言えど、どっちにも入れなくてよかった。それでよかった。

 

周りの意見に流されないで自分の意思を表すためのあのシステムですら、僕は怖かった。匿名投票というスタンスなのかもしれないが、誰か僕の入れた票の行方を掌握できる体育委員という人間がいる以上、あれは断じて匿名投票ではない。紙に書くシステムでも俺は字が上手かったから筆跡でバレてしまうし。今、小中学校教育でもタブレットが導入されることが検討されているようだが、まず真っ先にああいった類の投票の際にタブレットを使うべきだと思う。

 

 

先日初めてスキーをやった。いやいきなり話題変わるやんって思うかもしれないけど聞いてくれ。

最初はスキー板を履くのもままならなくて、何回も何回も転んだ。雪だるまに転生しそうなごとく転んだ。

一緒に行ったスキーのうまいイケメンな後輩が根気強く教えてくれたおかげで、スキーの魅力的な爽快感を味わえるくらいには上達した。顔面が痛いくらい滑れるようになった。

山頂から滑り降りているときに誰も居ないところで一人で転んだ。雪が舞い降りてくる灰色の空を仰ぎながら、ああ、このまましばらく寝転がっていてもいいかな、なんて思った。こうしてると先輩が戻ってこない!って騒ぎになってニュースになって捜索隊が出動して冷凍保存された俺が発見されてしまうから、自力で滑り降りてかないといけないんだけど。

 

大自然の雪の中では、自分がちっぽけな存在だと思うと同時に、どんな自分でも、確実に「そこ」にいるのが浮き出るように見えてくるんだと分かった。汚れのない純白の中に、一人寝転んでいると本来の自分の「色」が見えてきたようで、不思議な感覚だった。雪に嘘はつけないみたいだ。

「雪に嘘はつけないみたいだ。」いいねえ、いいコピー。来年のJR SKISKIに大抜擢だな。

 

周りの色に合わせて自分の色を変えていくカメレオンのような僕は、自分の本当の「色」を知らなかった。あの日、サウナのような狭い教室で埋もれてしまった「色」は、水風呂のような雪空の中で息を吹き返した。

 

何回転んでも、出来るようになったスキーは楽しかった。転んでも自分のちっぽけさを知るだけで、そこに悔しさも恥ずかしさもない。雪は全てを許してくれる。いいキャッチコピーだなあ。来年のJ、

 

体育の授業が嫌いだった。

特にバレーとムカデ競争が嫌いだった。誰のミスなのか明確に分かるから。なんなんだあれは。罰ゲームか。バレーとか俺にボールが飛んでくる瞬間、流れ星を観測するかのように視線が集まるじゃんか。俺は星じゃねえんだから、そんな見られたら満足にレシーブも出来ないし痛いし。成功しても手首が痛いってなんなんだあのスポーツは。できる人は本当にすげえな。こうやって最初からやる気がなかったものだから教えを乞う気にもならなかった。別に上達する気なんてさらさらないのだし。

だから、運動会のスローガンに選ばれたところで俺には不適任というか。俺のことはいいから勝手にやっててくれやといった感じで。どこか遠巻きに見ていた。9月は嫌いだった。

 

でも、スキーは失敗しても楽しかった。もちろん全然滑れなかった当初は諦めてそり滑りに専念するかと思ったものの、後輩が何回も俺を誘って教えてくれたおかげで楽しめるようになった。人生で運動においてあんなに達成感を感じたのは、自転車に乗れたとき以来かもしれないな。なんかよく誤解されるけど僕自転車は乗れるからね。

 

学童時代、周りに合わせていきながら体育の時間はそのことに限界を感じていて、アンビバレントな状態だったけど、ようやく僕の中のカメレオンは凍結されたような気がする。

 

失敗しても、その犯人を突き止めようとはしない。そんな環境が用意されていることは、実はすごく幸せなことなのかもしれない。雪は全てを許してくれるのだ。プロだってたまには転んでいる。リフトに乗りながら、プロっぽい身なりをした男性が転び、倒れた姿勢のままゆっくりとゆっくりと、平行に雪山を滑り降りていく様を見ながら思った。公平とはこういうことだと。

 

自分の中の「色」は、「みんなに合わせながらもちょいちょい自分を出していきたい」に落ち着いた。目隠しを徹底してくれるなら、一人であっても手を挙げることが、今なら出来るかな。でも、みんなも手を挙げてくれたらもっと嬉しいな、ってそういう子どもじみた気分は、失くさなくてもいいかなってやっぱり思うのだ。