ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

大学という箱庭

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大学3年生になった今、入学当時のことを思い出す。2年前、何もかもが一新された環境におかれた私は、半ばトランス状態に陥っていた。配られるビラの嵐、品もへったくれもない強引な勧誘、すべてが新しく出会う人ばかりで情報量の多いイベントの数々。どこまで行っても逃げ場がないくらい新しさの連続で目眩がしそうだった。

もともと4月はめちゃくちゃ苦手だった。「快活で明るい人間」を演じなければならないから、疲労が半端ではない。いかんせんそういう演技がめちゃくちゃ苦手というわけでもないので、なんとなくこなせてしまうのが後の疲労を倍加させる。

参加自由と謳ってはいるがこれに参加しないと大学生活に乗り遅れます的な、圧力の強いイベントの数々。参加しないという反骨精神を持ち合わせていなかった私は、短くない移動時間を持て余しながら、毎日仮面を付けて過ごしていた。

キャンパスの中では、知り合いが前からやってこないことを願いながら、中途半端に下を向いて歩き、イヤホンから流れるいつも通りの音楽だけが実家の匂いみたいに懐かしさを持って私の身体の中に直接染み込んでくる。大丈夫、私という人間はそう簡単に変わっていくものではない。そう言い聞かせていないと別人になってしまいそうだった。

それにしてもキャンパスの中では、浮足という浮足が立ちまくっている。何をそんなに背伸びしたがっているのだろう。何でもう楽な授業を見つけようとするのだろう。ここには何をしに来ているのだろう。

 

分からなかった。Twitterに溢れる虚栄心だけが悪目立ちするツイートも、大名行列のように闊歩する人々の煩さも、すべてがノイズになって、ますます大好きな音楽のボリュームを上げた。

慣れていないことや分からないことは地獄だ。右も左も分からずに彷徨っているうちは、目立つものについていくしかない。そういった目立った存在は得てして人を傷つけることを厭わない。自分が放つ光の眩しさに気づかず、目が眩んでいる人の存在にも無自覚でいられる。

新歓期を順調に乗りこなしていく人が、みんな自分の輝きをむやみやたらに見せつけるわけではない。見せつけようと思ってしまうのはその一部で、過激な行動に走ってしまう人だ。

煽情的な見出しや主語を大きくした言説は、手っ取り早く自分の光を強めることができる。良くも悪くも目立つことができる。

人をたった140字で判断するなと言われても、誰が誰だか分からない状況では、SNSが貴重な情報源だった。こんな投稿をしてしまう人が同じキャンパスのどこかに過ごしているという事実が、息苦しさを増やしている。それでも、情報を拾っていくにはノイズに触れなければならない。クリアな視界が開けるのは、色々なことが分かり始めたその後だ。

 

高校までとは桁違いなくらい人が増えた大学のキャンパスは、確かに閉塞感がないのかもしれない。誰が何をしたと言っても学校中に広まるということはもうないのかもしれない。顔も名前も知らない人とすれ違うのは街中の雑踏と変わりがない。

だけど街中と大学で大きく違うのは、キャンパスは箱庭であることだ。完全に無縁な人ではない、同じ時代に同じ大学に居合わせた人たちが集まっている。水分を含みすぎた絵の具みたいに薄い薄い色をした線が、キャンパス中を駆け巡って私たち一人一人を繋いでいる。キャンパスの中にいる以上は、その線を切ることができない。こうして中途半端に不特定多数と繋がっていないといけないことが、4月に含まれるストレスの大きな要因ではないかと思う。明らかに苦手だと思う人ともとりあえず薄い線で繋がっていないといけないストレスは、長い間落ち続ける水滴がやがて岩石を穿つように、自分の心を少しずつ確実に抉り始める。

 

心は身体のエンジンだから、手入れをしないとやがて動けなくなったり意図しない方向に動き始めたりする。4月はとにかく摩耗が激しい時期だから。

 

やがて箱庭での生活に慣れてくると、絵の具を塗り直すことができる。気が合いそうな人、好きな人との間には、もうベタベタなくらい塗り直せばいい。自分の好きな色で、何色でも重ねていけばいい。

だから、それまでの辛抱だ。

先日サークルに来てくれた新入生と喋っていたとき、「勧誘や無闇なLINE交換は苦手だ」と言っていた。3月のうちからそう言わせてしまうのってどうなんだろう。

2年前の自分も、まだ高校生なのにもう大学生に気持ちを向けなければいけないことに困惑したことをよく覚えている。

2年前の自分に言いたい。あとでちゃんと居心地の良い場所が見つかるから、箱庭の中で繰り広げられるノイズに心をすり減らす必要はないんだよと言いたい。この場所に適応しなければならないと、自分に嘘をつく必要はない。

ありのままの自分を良いって言ってくれる場所を見つけやすくなるのは、広い箱庭である大学の特権だ。

だから、今自分が違和感を抱いたものに対して、違和感を持ち続けられるような心は、どうか失わないままでいてほしい。

 

なにもこれは大学だけの話ではない。新しい場にどうにも馴染めないと思ったとき、自分の心に嘘をついてまで我慢する必要はない。故障したエンジンが自分の身体を傷つけ始めるその前に、ちゃんとお手入れをしてあげて、あなたのそのかけがえのない感受性を、どうか失わないままでいてほしい。頑張って周りについていくことは、目立つことと同じくらい大変なことなんだ。みんな等しく讃えられるべきことなんだ。

 

そして新しい情報の渦の中に呑まれ、自分の居場所を見失いそうなとき、頭の中に居座っている大切な人や思い出に頼ることを躊躇わないでほしい。

一つ一つのキラキラした思い出は、そのときだけでなく未来もずっと自分を守り抜いてくれる。だから思い出というものがあるのだ。存分に甘えてしまえばいい。

たとえ、過去に甘えることが逃げることだと言われても無視していい。自分の過去も現在もそしてこれからのことも、まるごと肯定してくれるような人にこの先ちゃんと出会えるはずだから。

思い出を大切にしていて、現在の状況に上手く馴染めないけど、だからといって現在の状況に八つ当たりをしない人、過去への愛着と現在への攻撃を一緒くたにしない、出来ない、そんな優しい人たちの心が、4月のうちはもっと大切にされるべきだと思う。

 

大切な人の頭の中に新しい情報がたくさん流れ込んだとき、いつでも私との思い出が居座っていればいいなと思っている。いつでも守るから、呼んでね。