ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

名前

新しく出会う人の名前が覚えられない。

いや、正確には顔と名前が一致しない。

名前を覚えるのはむしろ得意で、漢字までしっかり書けたりするから驚かれるのだけど、その名前が誰のものだったのか?これが苦手だ。

 

名前は、いい。何故かは分からないけどすごくいい。好きな人の名前は何度も口にしたくなる。基本的に名前を呼ぶ回数と好意は比例している。漢字のバランスや響きがお気に入りの名前は紙に書いたりもしている。何度も紙に書き殴っている姿は客観的に見ると少し不気味かもしれない。

なんでその漢字を使ったのか、なんでその読みにしたのか、一つ一つ気になるから俺はよく名前の由来を聞きたくなってしまう。兄弟姉妹の名前も聞きたくなる。でも、由来を聞いてしまうことは、土足で相手の精神領域に踏み込んでいる気もして、なかなか聞けないことも多い。

 

名前に関する歌詞でいくつか俺のお気に入りのフレーズがあるから紹介したい。

憧れたり コケにしたり 愛おしい二文字

君の名前 つけた人は すごくセンスがいい

(スピッツ/ナサケモノ)

「君」への愛おしさが、名前をつけた人の存在にまで言及するほど突き抜けてしまうその威力。好きな人の名前ってめちゃくちゃセンスがいいよな。

好きな人の名前と同じ読みだったり同じ漢字を使っていたりする人に出会うと、勝手に親近感を覚えてしまう。逆も然り。

幼少期苦手に思っていた人と同じ名前を持った人がいて、最初はあまりお気に入りの名前ではなかったのだけど、でも性格が全然違ったので、新しく出会ったその人のことが大好きになって、今ではその名前もいいなあと思えるようになった。

不思議なものだ。名前は固有であるはずのものなのに、簡単に外的な理由で印象が曲げられる。そして、名前は人と人とを区別し、様々な場面で用いられる公的なものでありながら、その文字一つ一つに思い出や感情が込められてしまう、すごく私的なものでもある。卒業式で皆等しく呼ばれる名前も、全てが違う響きに聞こえる。

 

槇原敬之の「Remember My Name」の冒頭はこのような歌詞である。

さっき君に告げたのは

僕の名前だけど

それは君の友達という別の意味があるんだ

孤独が君の事をどこかへ

さらおうとしたって

僕の名前を呼べば

孤独は君に近づけない

個人を識別するための方法である名前が、別の「意味」に変えられるとき。このとき、もはや名前は名前の範疇を超えた。大切な名前は、さながら魔法の言葉のように響き始める。

 

だからだろうか、たまに大切な人の名前を改めて見つめ直してみると「こんな名前だったのか」と奇妙な感覚を覚えることがある。名前が名前としての役割を超えて俺の意識の中に浸透していたため、改めて公文書などに現れる公的な側面の強いその人の名前を見ると、不思議な気持ちになるのだ。ゲシュタルト崩壊に似た感覚かもしれない。

 

名前はラベリングだ。ストレスという言葉ができて初めて、あの緊張状態に置かれる不快感を対象化して扱うことができるようになったように、名前をつけることで認識の上に置くことができる。

でも自分の側に深く入り込んできた人に対しては、もはやそのようなラベルが必要なくなったのかもしれない。記憶の中にずっと残り続ける存在は、名前を必要としない。ラベルが剥がれ始めるそのときこそ、名前が「別の意味」を持ち始めるときなのかもしれない。

あるものを対象として扱う必要があるからこそ、名前というものは生まれる。だから本当はストレスも、ハラスメントも、名前が消えたときこそ、その使命を終えたときなのかもしれない。もうそんなものなくなったから、呼ぶ必要なんかないよねという段階に至れば良い。

 

逆に言えば、呼ばれ続ける限りそれは永遠に認識の上に残り続ける。人が亡くなった時、その名前が墓標に刻み込まれる。確かにそこに生きていた証として刻み込まれている名前は、もう実体のないものだとしても、いつでも心の中で響いてくれる。居なくなった人の名前が誰かの心で呼ばれているうちは、その命は役目を終えてはいない。だから、呼び続けていかないといけない。

 

Please call my name, so remember my name.

Just call my name, so remember my name.