ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

健やかな論理

「こういうことがあった辛くてたまらないもう死にたい死にたい死にたいって助走があるわけじゃなくて、ふと、なんか、別にもういっか、ってなる瞬間。」

 

先月発売された朝井リョウの最新作、『どうしても生きてる』という短編集の中の「健やかな論理」という短編が印象に残ったので、あらすじとともに紹介したい。

 

 主人公佑季子は普通の会社に勤めている三十代後半の女性で、離婚歴があるが、現在は恭平という彼氏がいる。会社での仕事はルーティンワークに尽き、特に心を削ってくるような仕事も上司もいない。きわめて平凡な生活を送っている。「適度に働いて、税金も納めて、そのまま日々を過ごし続けたい。それがひどく怠惰なこととして数えられるようになったのはいつからだろう」という語りにも、佑季子の生活の様子が見える。

 

 とてもありふれた人が主人公の話であるが、それでも強く印象に残ったのは、佑季子の周りの出来事に対する捉え方に、心当たりが私にもあったからである。この短編のタイトルである「健やかな論理」という言葉が短編中には何度も登場し、この言葉がとてもしっくり来たのである。以下、「健やかな論理」という言葉が登場する場面を箇条書き的に紹介する。

 

 彼氏の恭平と一緒にミステリーもののテレビドラマを見ている時に、恭平は劇中の被害者に対し、「Amazonかなんかの再配達を頼んでるからこの人は自殺をしているわけがない」という推理を展開する。

 佑季子の母と二人で話している時に、佑季子の弟である孝浩の娘などの家族の話をするのを母がためらう。離婚している佑季子に気を使っているのだ。だが、佑季子に彼氏がいることが分かると、安心したようにまた弟の家族の話をし始める。

 会社に対するクレーマーへの愚痴を言う佑季子の同僚が、「どんだけ満たされてなかったらこういうことしちゃうんだろ」と言う。

 

 これらの出来事に対しての佑季子の語りが印象的だった。

 

 ○○だから××、という健やかな論理は、その健やかさを保ったまま、やがて、鮮やかに反転する。「満たされていないから他人を攻撃する」……はやがて、「満たされている自分は、他人を攻撃しない側の人間だ」……に反転する。おかしいのはあの人で、正しいのは自分。私たちはいつだって、そんな分断を横たえたい。健やかな論理に則って、安心したいし納得したい。だけどそれは、自分と他者を分け隔てる高く厚い壁を生み出す、一つ目の煉瓦にもなり得る。再配達を頼んだのだから、自殺なんてしない。……新しい恋人ができたら、もう大丈夫。……そんな方程式に、安住してはならない。自分と他者に、幸福と不幸に、生と死に、明確な境目などない。(pp.34-35)

 

 短編の後半では、平凡に見えていた佑季子の「心の闇」とでも言えるような「趣味」が明らかになる。自殺の報道をニュースサイトで見ると、その自殺者のSNSアカウントを特定したうえで、その人の最期の投稿を、そのニュースサイトとともに保存しておく。きわめて日常的な「最期の投稿」を見ることで、「健やかな論理」から外れたものを見ることで、佑季子は安心感を得るのだ。なにかとてつもなく辛いことがあったわけでなくても、人は突然人生をぶった切ることができる。「死にたい」と思わなくても「なんか、別にもういっか、ってなる瞬間」だけで、人は死を選びうる。人の生はそれくらい不安定なものであるということを、佑季子は自覚している。

 

 私が驚いたのは、佑季子と同じようなことを私もしているからである。流石に自殺者の特定はしないけれど、有名人の急逝の報道に触れると、その人のツイッターアカウントの最期の投稿を必ず見ている。なぜ私がこのようなことをしているのか今まで分からなかったけど、朝井リョウが上手く言語化してくれたような気がする。

 

 今日生きている私たちはたまたま「死ななかった」のを繰り返しているだけにすぎないのに、そのことに無自覚でいてはならない、という気持ちが私の中にもあるのである。「こんなことがあったから、死んでしまったんだろうな」と思ってしまえるのは簡単だし、自分も生と死の境の曖昧なところに立っているのだということから目を背けていられる。私が思慮深いとかそういうことを言いたいのではなく、このような「曖昧さ」を忘れてはいけない、という自覚が常に私の中にはある。


 そしてまた、「健やかな論理」を危惧する気持ちがあるから、私は少年非行というテーマに関心があるのかもしれないと思った。「家庭環境が悪かったから、交友関係がよくなかったから、暴力的なゲームをやっていたから、こんな犯罪をしてしまった」と納得するのは簡単で、このような「健やかな動機」を手に入れることが出来た人々は、「少年A」との間に境界線を引いて安心することが出来る。「満たされている自分はこんな凶行には至らない」という論理に「反転」するのだ。しかし、「少年A」の側から捉えてみれば、きっとそのような論理は通用しない。中身はもっとごちゃごちゃで目を逸らしたくなるものだと思う。このような問題意識から、少年非行の研究をしたいと思ったのだ。

 

 朝井リョウは、人々が見ないでおこうとし続けた現代社会の人間の中の闇を容赦なく暴いていくことに定評がある作家である。読んでいてかなり胸がえぐられることが多い。今回もその容赦なさに圧倒されたわけだが、今までで一番共感も覚えるものだった。しんどいけれど目が離せない読書体験だった。

 

 今回の短編はかなり暗い話である。終盤では佑季子は「ふっと」電車が来る線路に飛び込みそうになる様子が描かれている。だが、彼氏の恭平から来た晩酌の誘いのメールで、佑季子は強烈に「会いたい」と思い直す。いつでも少しだけ死にたくなるのと同じように、少しだけ生きたい自分もいる。この終わり方には少しだけ救いがある。

 

 毎日はすごく曖昧に過ぎていく。それでも周りの人とのふとした出来事がきっかけで、どうしようもなく生きていたくなる自分もいる。「どうしても生きてる」のである。