ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

書くことは呼吸、だけど聞くことも呼吸

何か嫌なことがあったときに自分の気持ちをありのままに書いてみると、スッと気持ちが落ち着くときがある。

言語化」による癒しの効果というのは絶大で、今まで自分が抱いていた気持ちがスルスルと言葉に変わっていくとき、ドンピシャの味のミックスジュースを飲んだ時のように、胸が踊る気持ちがする。自分の思想を混ぜこぜして美味しいものができた!喜びが抑えられない。こうして呼吸をするようにツイートをすることで心の安寧を得られる。

書くことは呼吸。だから、言いたいことも言えないのはすごく息苦しい。溜まり溜まった自意識はどこかで解放してあげないと、熱暴走を起こしてしまいそう。だからこそ、書くことは大事だ。絶対に必要なんだ。

 

でも、どこかに何かを書いた以上、それは聞かれることを逃れられない。

いま、「読む」ではなく「聞く」という言葉を使ったのには理由がある。情報過多の現代は、溢れかえっている言説を読み解くことよりも、なんとなく聞き流すことの方が圧倒的に多いように感じるからだ。そして、出所不明の情報が、伝聞という体で広まっていく。その意味でも、原本を「読む」というよりも、どこかの誰かの話を「聞く」と表現した方が適切であるように思う。

 

聞き流しが多いことは何を意味するか。私は、聞き流していることに息苦しさが宿ると感じている。

例えば、図書館にいて集中しているときにずっと喋っている人がいたら、居心地の悪い気持ちがするだろう。そんなとき、人は耳を塞ぐか、場所を変えるしかなくなる。現状、構造的に聞き手の方が圧倒的不利なのである。

この「聞き手」の不断なる努力によって成り立っている世界がたくさんあることに、もっと自覚的になってもいい局面だと思う。

 

みんながみんな自分の言葉を「読む」わけではない、ということを忘れてしまいそうになる。断片的な文をリリースし続けることによる緩やかな怠慢については既に書いたことがある(正しさがガラクタになるとき - ノートの端っこ、ひこうき雲)が、情報の海から必要なものを選択していかなければならないとき、大多数の情報はノイズとして切り捨てられることになる。

そんな「情報の仕分け作業」の際に問われるのは、非常に表面的な点にとどまる。そんなときに絶大な影響力を発揮するのが、言葉の使い方なのだと思う。

 

今まで私が書いてきた真面目なエッセイはすべて「言葉の使い方」について言及し続けたといっても過言ではない。

言いたいことがあるのは分かる。書きたいことがあるのは分かる。だって書くことは呼吸だから。

でも、その言いたいことって何かを否定しないと言えないことなのか。何かと比べて何かを貶めないと言えないことなのか。もちろん比較することが論理的妥当性を高めることもあるだろう。でもその比較された側について考えたことはあったか。

そんなに大きな主語で書いて良かったのか。限定された主語で書いているけど、それって別に皆に当てはまることじゃないのか。

難しい言葉や短い言葉や強い言葉が取りこぼしているものはないか。そもそも何かを伝えたくて書いているのか。それは本当に皆に向かって言う必要があることなのか。

 

聞く方だって呼吸していることを忘れてはいけない。画面の向こうで呼吸をしている。生きている。自分の人生を精一杯生きている。書き手だけが生きているわけでは断じてない。

 

聞き手のことを考えていない言葉なんて、何の価値もないノイズだ。

 

こんなに色々考えなきゃいけないのかよ?めんどくさい?そうだよ、本来言葉っていうのはそれくらい面倒なものなのだ。毒にも薬にも、なる。自分だけベラベラ喋っておいて、聞き手に対してだけいろんなことを要求しすぎじゃないのか。あなた自身の物語の中の役を勝手に押し付けてはいけない。聞き手は、自分の物語の中で精一杯に生きている。

 

 

強い言葉で色々と述べてきたが、私だって言葉を司る神などではない。言葉をずさんに扱ってしまったことなんて、たくさんある。だから、この文章は自分への戒めも込めている。

 

私の周りには、本当に真摯で誠実な聞き手の方々がいる。私が書いてきたことに対して向き合って聞いてくれる人に、何度救われてきたか分からない。世界を支えてきた聞き手の方々に対しての敬意を、忘れたくなんかない。

聞き手たちが自分の耳を塞ぐことなく、たまには書き手の側に回ることもありながら、今日ものびのびと呼吸できていることを、願ってやまない。

f:id:SouthernWine29:20191211002818j:image