ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

インスタのストーリーを見ている人の真顔写真集を出したい

この文章は電車で書いているが、目の前に座っているおじさまがとても良い。髪の毛をガチガチに固めてサイズがぴったりのシャツを着たダンディーなおじさまが、スマホを見ながらめちゃくちゃ笑っているのがめちゃくちゃ良い。気になって仕方ない。何を見ているのかは分からないけど、とにかく楽しそうなのである。

怪しげなニヤニヤという感じではなく、声さえ出してないけど、これはもう快活な笑いなのである。俺が電車内でこんなに笑ったの中央線の軋む音が友達の声にそっくりなことに気づいてしまったときくらいだぜ。

公の場でスマホを見ながらこんなに笑っているのを久しぶりに見たけど、電車はこれくらい楽しく過ごしていいよなって思う。

 

一緒にいる友達がスマホの画面を見ている場面は幾度となく見てきた。その中でインスタのストーリーを見ている場面も何回も見てきた。

 

この画面を見ている顔がまあ、真顔なのである。

そんな真顔になる?ってくらい真顔なのである。

 

俺がこんなに真顔になったの、コーンフレークを入れてから牛乳がないことに気づいて水を入れたら案の定不味かったという兄貴の話を聞いた時くらいだぜ。

画面の中で繰り広げられている光景は煌びやかで、切り取られた素敵な日常のスライドショーである。見ていて笑顔になってもおかしくないくらい輝いている。

 

なのに、めちゃくちゃ真顔なのである。念仏でも聞いてんのかってくらい真顔なのである。

画面の中の光景とそれを観察している外の空気が全く一致していない。高低差がすごい。 

 

何回も思っているけど、ストーリーって機能はすごい。自分しか見られないはずの景色や表情を切り取って、いとも簡単に、たくさんの人に向けて広めまくることができるのだから。

それはただの景色じゃない。何を見せて何を見せないのか、シーンの連続を切り取るという行為にその人の自意識が見え隠れする。

 

適切な切り取りが出来ているストーリーは本当に面白いけど、まあ見ていて真顔になってしまうのも無理ないねというのも多い。誰だか分からない人が酒で潰れているような内輪ノリや、見ていて何とも言えない気持ちになるイチャイチャは、24時間限定公開という条件が付与された瞬間、タガが外れたように垂れ流される。そのような予測不能な「私」の垂れ流しに対しては真顔で居るしかないのである。

 

この真顔が、僕は大好きである。人間が表情をコントロールすることを忘れた一瞬の油断が大好きである。

 

対面での会話やお笑いというのは「笑い」が前提となって繰り広げられる。 特に何かが起きなくても、前提が笑いなのだから表情が大きく事故ることはない。そこではたしかに「生」がある。生身の人間同士の体温が共有された歓びが見える。

 

ストーリーの面白さは、画面越しに流れ出てくる生に対して、こちら側がしっかりと一瞬表情をリセットした「死」を持って迎えることである。そんな一瞬死んでいる人々の真顔の写真集を作ったら、立派な文化遺産になる気がするのだ。これまで生きることしかしてこなかった人間の境地が、一瞬だけ死ぬという技術である。これこそが新時代のシンボルとなるだろう。

 

いまだ電車に乗っている僕の隣のおばあちゃん二人が顔を向き合わせてめちゃくちゃ喋っている。昔からの友人同士なのだろう。まだまだ生を感じている。

生と死のあわいを過ごすというのは案外日常のインスタのストーリーで達成されているのかもしれない。これは本当に世紀の大発明なのである。発明が発達しすぎて死の側に傾きすぎないように気をつけたいところだが。