ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

生きがいと死にがい

f:id:SouthernWine29:20190704220009j:image「なんとなく死にたくなる」という感覚は、6月や梅雨時期にギラギラしている人以外誰もが経験しているものだと思う。「からあげ食べたいかも!コンビニに寄ろっかなー」くらいの感覚で「ちょっと死んでみようかな」って気持ちを抱くということが描かれた漫画がTwitterでも話題になっていた。気持ちがとてもよく分かる。

そして、どんな死に方があるんだろうと検索してみると、どれも後処理で周りに迷惑をかけてしまいそうだし、別に周りの人を悲しませたり苦しませたりするために死にたいわけではないから、「死ぬ方が面倒だな」という結論になって、とりあえず日々を生き延びている。

特段死ぬための大きな理由もドラマティックな出来事もないから死を選ばないってだけの話で、いつかからあげにレモンをかけるようなノリで死んだとしてもそこまで不思議ではない。

誤解を避けるために言うが、死ぬことを推奨したいわけではない。ただ、生きることを休止したいという感覚自体を抱くことはそれほど変なことではないと思うのだ。「死ぬなんて言うなよ」というのは真っ当な言葉だが、真っ当なだけでそれ以上のものではない。だけど、流石に親とか友人の前で死にたいを連呼するのは彼らの精神衛生上良くないのであまり褒められるものではない。

 

何かや誰かのために生きようという大きな生きがいもなければ、これのために死にたいという死にがいみたいなものもない。とりあえず好きなアーティストが今年の秋にアルバム出すらしいからそこまでは生きていようかなーくらいの、日々を継ぎ接ぎする感じで生きている。

できるだけ長く生きるために、できるだけ遠い未来に楽しみなイベントを置いているという節がある。こういったイベントがRPGセーブポイントみたいに機能していて、とりあえずセーブポイントに行くまではゲームの電源を切るわけにはいかないよな、という発想になる。だから、セーブポイントを抜けた先のことを考えると、次に来るセーブポイントでゲームのデータを消してもいいんじゃないかなと思い至る。

楽しみな出来事が待ち受けている時に、その出来事が終わった後のことを考えて悲しくなってしまうのも、きっとセーブポイントを越えた後のことが不安で仕方がないからだろう。

 

久しぶりにゲームで遊ぶときに、前にやった中途半端なセーブデータを削除して改めて最初から始めたという経験がある人は多いのではないだろうか。これくらいのノリで人生を歩んでいきたいな、とよく思う。でも人生はリセットできないし、セーブデータは一つしか存在しないから、どれだけ中途半端なセーブデータであってもそのデータで続きを始めるしかない。

人生は前に戻れないからデータを突然消したくなるのだ。自分が戻りたいセーブポイントまで戻れるシステムだったら、どれだけの命が救われたのだろうかと思う。

現状の人生はリセットシステムがないから、取りうる手段としてはスリープモードしかない。「死ぬわけにはいかないけど生きることを休止(≠停止)したい」という感情も、こういったことに起因しているのだろうと思う。

 

平井堅の「ノンフィクション」という曲にこのようなフレーズが登場する。

惰性で見てたテレビ消すみたいに

生きることを時々やめたくなる

とても的確な表現だと思う。なんとなく惰性で見ていたテレビは「何もしていないこと」が是とされるものである。だが、心に余裕がないとき「何もしていないこと」が凶器になって自分の心に突き刺さり始めたとき、ふと電源を消してしまいたくなる。

 

「将来を考えること」や「添い遂げたい人がいること」は、持っている「生」のエネルギーがあまりにも強い。精神的な生と死の狭間を薄くぼんやりと過ごしてきた人は、押し寄せてくる「生」に対して為す術を無くしてしまう。生と死のグラデーションの中で日々を生きているのに、「白か黒かハッキリしようぜ」というギラギラした波が眼前に迫ってきたら、もう逃げ道がなくなってしまう。

ぼんやりと過ごしていくことは何も悪いことではないのに、そうさせないぞ、という圧力があまりに強すぎる。圧力をかけている側にとって、悪気はないんだろうけど。自分の人生の中にドラマを見出せた人は、きっと毎週欠かさず見るテレビ番組のように、生を積極的なものにさせるのだろう。そして他人が見せてくるドラマを見てしまうと、すごく自分が責められている気分になる。「お前は何もしてないよな」って言われている気がしてくる。

よくよく考えると、他人が惰性でテレビを見ていたとしても、その人のことを責めようなんて誰も思わない。だけどそれが自分のことになるとめちゃくちゃ自分を責めてしまうし、周りのあらゆる出来事に責められているように感じてしまう。

 

このブログの最初期のテーマが「理性による感情への侵食」だった。人の感性に侵入してきて理性の光を浴びせる風潮に中指を立て、自分の世界を守っている人を讃えるような、そんな文章を書いてきたつもりだ。

まだまだ、「個人の感情なんて知ったこっちゃない」がまかり通ってしまう。周りのことなんて気にせずに自分の幸せさをすぐに発信できるし、周りの動向を見やすくなって横一線を意識しやすくなった。自分なりの歪みに歪んだ曖昧な世界を肯定する機会が、確実に失われているような気がする。

「見たくないなら見なければいい」で済むならどんなに良かっただろうか。見ていないところで何が蠢いているのか気になって、神経がすり減らされることに変わりはないというのに。

見たくないけど見てしまう。当たり前だ。

見なくて済むのは、自分のドラマに満足できている人だけだし、そのことに無自覚でいられるのは、なによりも幸せなのかもしれないな。

 

何であろうと、惰性で続けていたゲームも、惰性で見ていたテレビも、ほんの少し先に笑えるポイントがあるのかもしれない。人生に録画機はない。だからもうちょっとだけ電源ボタンは遠くに置こうと思っている。

生きがいも死にがいもない。それでも生きていたい。100点。