ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

ひとりでいること

 ぼーっとしているときによく思い出す景色がある。

 それは私が通っていた中学校への通学路の道中で、私がただひとり佇んでいる光景である。私の母校の中学の周りは土地の関係で坂道が多く、私が思い出す場所は、数々の下り坂の終点を結ぶ谷のようなところである。 

 頭の中にこの景色を蘇らすとき、私はいつもひとりである。背後には急勾配の坂があり、目の前には、石で出来た長くそびえる階段と、生い茂る緑がある。そのどこにも人はいない。よく一緒に登下校していた友人も、近所の住人もいない。

 そんな究極な孤独の光景を、度々思い出してしまう。記憶の中の景色に自分を降り立たせながら、私はどこにでも行ける自由と、どこにでも行ける孤独を味わう。手足を伸ばせば何だって出来るけど、それを見ているのは自分だけ。

 

 ひとりでいることについて考える。距離を保って生活する日々が続き、あたりまえのようにひとりで過ごすシーンが増えた。誰かと一緒に居られないことには、しんどさも感じるかもしれない。

 そんなときは、自分を記憶の中の景色に置いてみる。できれば静かで風がよく通り陽の当たる場所に。水が流れる音や山が喋る声、鳥のささやきが聞こえる場所でもいい。雨上がりの露が光るバス停でも、電気の消えた昼間の校舎でも、なんでもいい。深く呼吸をして落ち着ける場所を探して、ありったけの想像力でその仮想空間へとワープする。

 幼少期、自分の周りの世界が生活のすべてだったときに感じた全能感を取り戻してみる。どんなにピンポイントでも、家の中でなくても、自分が落ち着いて呼吸をできるところこそ、あなたがあなたらしく動けるところだ。

 それは好きな小説や漫画やアニメや映画の中の景色でも、作中に描かれていなくても、自分が想像して出来るだけ具体的に空気を感じられる場所なら、どこだっていい。

 

 私が、四方に坂道が広がる場所へと自分を置いたとき、その坂道の向こう側のことは想像さえもしていなかった。自分がいる場所が下り坂の終点を結ぶ谷であろうとも、私にとっては世界のすべてだった。

 ひとりでいることの生きづらさは、谷を社会に接続しようと頑張りすぎることだと思う。自分が世界のすべてだと思ったものは、紛れもなくあなただけのものだ。無理に他の場所と繋げなくたって問題ない。どうせ現実世界は繋がらざるを得ないのだから、自分の中の大切な場所くらい、公から切り離すべきである。

 記憶の中であっても、自分が譲れない大切な場所を確保しておいて、自由にその場所に戻ってこられること。どこにでも戻っていける自由と孤独を死守すること。

 

 夏の昼下がりにぼんやりと思い描くような原風景は、どれだけ時間が経ってもそこにいるし、逃げることはない。安心して身を任せて昼寝でもしよう。少しでも緊張が和らぐ場所を、ひとりひとりが手に入れられますように。