ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

モラル・パニック・ユートピア

「先生、○○くんが□□ちゃんのことを無視しているんです」と生徒の一人が言った。

「それはよくないね。○○くん、何があったの?」先生は○○くんの方を向く。

彼は何も言わなかった。□□ちゃんのことを苦手に思っている彼は、何も言うことが出来なかった。無視をしているというより、関わりたいと思わなかったのだ。

先生は業を煮やし、「無視はよくないことです」と叱る。生徒たちは先生に賛同し、彼への攻撃を強める。

翌日から教室内で彼に話しかける生徒は居なくなった。よくないことであるはずの「無視」で、彼自身を教室から排除した。罪を犯した彼がいなくなった理想の世界は今日もせっせと秩序を保ち続ける。

 

ある社会秩序への脅威とみなされた人々に対して表出する激しい感情のことをモラル・パニックと言う。

「彼らは自分たちとは違う、道徳や常識から逸脱した存在だ」という境界線を引くことで、「脅威」を自分たちの道徳秩序から追放し、人々は揺らぎかけた道徳の境界を再定義する。

この感情には、秩序が揺らぐことへの恐怖も含まれるが、それ以上に"純粋な"怒りが多く含まれる。「道徳の番人」である民衆が自身や他人の感情を煽りながら「よそもの」を排除することに勤しむ。「自分たちはこいつらみたいな卑劣なことはしないな」と言いながら、彼らに対して人格否定やもっと直接的な攻撃を施すことが容易に行われる。

ここに危険性がある。モラル・パニックは個人的な怒りの感情が正当性を持つ可能性が極めて高いのである。

個人的な怒りの感情と書いたが、厳密に言えば人々は自分の身に降りかかったことで怒っているわけではない。道徳的規範と照らし合わせながら、自分に利害があるわけではないのに怒ることが出来るのである。だから、個人的な怒りの感情というよりも、当事者、とくに被害者の視点を借りながら怒っているのである。社会正義の名を借りた個人的な怒りなのである。

「人々は自己利益を追求するものである」という人間モデルから考えると、モラル・パニックは極めて不合理な現象だ。"誰かのために"怒っても一銭の得にもならない。

それでも、なぜ人々は怒っているのだろう。

自分とは違う人たち、罪を犯した人たち、不気味な人たちを道徳の共同体の外へと追放する。分断の先にあるのは居心地のいい場所なのだろうか。

「よそもの」を作り出すことは、とても気持ちがいい。彼らが居てくれる限り、自分自身は"正しく"いられる。

憎むべきは倫理的でない行為それ自体であり、このことは人格否定を意味しない。それでも行為よりも人格を否定しやすいのは、考えるべきことが少なくなるからである。

行為自体を批判するには、なぜ人を殺してはいけないのか?なぜ不倫をしてはいけないのか?刑罰のあり方は?報道のあり方は?といった考えるべきことがたくさんある。

それに対して、人一人を追い詰めることは容易である。「なぜその行為がダメなことなのか」という疑問は「その人が悪いから」「性格が悪いから」「そもそもこの人ってなんで人気なのか分かんない」の人格否定にすり替わる。考えるべきことを減らすことができる。

言うまでもないことだが、私は倫理的でない行為を擁護したいわけではない。事実確認と当事者双方の視点に寄り添いながら慎重な判断を行い、然るべき制裁が下されるべきだと思う。けれども、その人に直接顔を合わせる必要がないのをいいことに人格否定を繰り返すことは、制裁とは言わない。正義の名を借りた鬱憤晴らしである。

 

モラル・パニックで揺れた後は、教室や世間では再び"理想"が求められる。この共同体では理想を求め、常に追放するべき人を探し求めている。綺麗に管理されたユートピアが、今日も変わらず動いている。