ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

知人という貨幣

金をよこせよ、と送ってみた。送ったら満足したので、スマホを机に置いてまたパソコンに向かう。

自分の歳が無用にも積み重なっていくにつれて、机の上に平積みにされた年賀状の束が、年々厚みを失っていく。新年を祝うメッセージが電子化していくことに、僕は抵抗を覚えない。だから、年が明けて間もないうちに、鋭利な言葉を、年賀状には書けないような言葉を、送ってやりたくなった。

それは、ただ悪意で固めたような言葉よりも、威力が強いときがある。見知らぬ場所で通り魔に刺されるよりも、自宅の慣れ親しんだ包丁で刺される方が、なんだかドラマティックであるみたいに。

メッセージを送った相手から、「え」という困惑の言葉が返ってきた。相手の顔に卵を投げつけたような困惑さえ手に入れば僕は満足だったから、そのまま何も言わずにメッセージアプリを閉じた。

 

スマホの向こうの相手は、きっと今頃新しい僕を、何食わぬ顔で探しているのだろう。「え」と言ってはいたけど、唯一無二の存在を突然失った重さとは違う、あまりにも軽い反応であることは、声を聞かなくたって分かる。蛍光ペンの一本を無くしたくらいの喪失感なのだろう、と思いながら僕はまた期末試験の勉強に立ち戻る。

 

メッセージの相手はあまり大学の中で見かけない。どこで何をやっているのかは知らない。知ろうとも思わないし、それくらいの距離感が心地いい関係性だった。環境が変わって浮き足立った状況で出会う人たちとは皆、それくらいの距離感を保ったまま奇妙な四年間を過ごしていくのだと、口には出さないけれどそれを当然の前提として過ごしている。

 

そんな日々の中で、年に数回やってくる試験前の時だけ急に距離を詰めてくるのが彼だった。講義に少しだけ現れて、自分が知っている人の存在を確認したら勝利を手にしたも同然。あとは試験前に情報の海の中で"知人"に連絡をすれば、彼は単位を取ることができる。"知人"の中に僕が居るのだろう。

今までは彼の要望に僕は快く応じていた。特に断る理由もなかったからである。レジュメ、講義中に教授がボソッと呟いた試験に関する情報、過去問、ヤマ、オリジナルのノート。僕はバリエーション豊かなラインナップを取り揃えていた。

 

でも、割と人間って他人のことを無料で使おうとしてくる。インクが切れかけの蛍光ペンよりも薄い人間関係だけを対価にして、関係が繋がっているだけのことが何かの利益であるかのような顔で。

コネと人脈はお金に変えられない。けれども貨幣と同じような使い方をしてくることがある。

それだけではない。誰かのプライベートな情報をコミュニケーションの切り札にする人もいる。かけがえのない思い出や二人だけの秘密を容易に市場に売り渡す人もいる。

 

「人を手段として用いてはいけない」は、現実的ではない理想の言葉だ。生活していく以上、私たちは他人を利用することを免れない。コンビニの店員、電車の運転手、旅行代理店の人。

だから、彼らにはお金という対価を支払う。彼らの労力を費やしてもらった分、お金という形で返す。

そのルールを知っていながら、知人相手になると途端にタダ働きを要求してくる。きっと、情というクーポンを駆使して渡り歩いていくのだろう。

この習慣を繰り返していると、やがてその人のパーソナルゾーンにずけずけと侵入することもタダで要求しようとしてくる。情と性愛が繋がりやすいのをいいことに、相手の感情を管理して踏みにじる。

 

そういう人には、ちょっとだけ不幸になってもらいたいなと思う。でもきっと、彼らは自分の貧しさに気づかないまま、途切れることのないクーポンを使い続けていくのだろう。