ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

高台からの強い言葉

人は、基本的に自分の経験から語ることしかできない。

そしてその経験が、自分が立っている足場が、どれくらい高いところにあるかを自覚することはとても難しい。

高いところにいると、自分の経験からこしらえた方程式を押し通しやすい。そのこと自体は誰しもがやってしまうことだ。自分が持っている価値尺度を使ったほうが、多くのことを考えなくて済むし、余計な労力を割かなくて良い。人は意図的に認知的倹約家になるということは社会心理学上で何回も言われていることだ。

怖いのは、こうした認知的な倹約の結果として生まれた即席のレンズが、大きな覇権を持つことである。誰かのある特定の物の見方が、絶対的な"善"となって社会に流通してしまったら、人は人工的な近視眼を手に入れてしまう。

他人の眼鏡やコンタクトレンズをかけても度が上手く合わないのと同じように、その人の物の見方はその人だけのものであって、他の人には上手く当てはまらないのが普通である。普通であるはずなのに、人はたまに意図的にピントの合わないレンズでその場をやり過ごそうとする。それは、見たくないものを見ないままでいられるからである。

絶対的に恵まれている人は一定の割合で存在する。そういった人の足場は高台になっていて、周りを見渡しても同じくらい高いところにいる人はそんなにいなくて、だから自然と周りの人と接するときは足元を見ながら話すことになる。

「やっぱり世界は広いなと感じますね。自分のいた世界の狭さを知りました。価値観の違う人と出会ってみると、もう世界が180度変わって見えますから」

"自分のいた世界の狭さ"を自覚することはできても、その狭さに気付いたという言葉を、"自分のいた世界"に向かって上から投げかけることについては、あまり自覚的になれないようだ。

世界が広いということが事実だとしても、自分のいた世界が狭いと断言できるほど、自分のいた世界のすべてを見通した自信はあるのだろうか。自分が根差している世界は、頑張って見つけた広い世界と同じくらい複雑なつくりをしていることに、どれだけ自覚的になれたのだろうか。

高台の頂点に登り詰められることは、すごい。自分ではどうすることもできない環境要因に加えて、自身の弛まぬ努力の先に見えてくるものだ。運と努力する才能を持ち合わせたほんの一握りの人間だけが見られる世界がある。

ただ、そういった上を上を目指すような、上向きのベクトルにまつわる合理性だけでは、構成されていない世界がたくさんある。このような世界の複雑さに目を向けられることが、謙虚さを意味するのではないかと思う。謙虚さはこういった絶対的な"権力"の差に気付けるかにかかっている。

自分と同じ高さにいる人と一緒に横ばかり見ていたら、差し出す言葉は皆、高台からの暴力的な言葉になる。「毎朝満員電車に揺られて人生終わっていいんですか、私は…」「今の時代は海外を視野に入れないと…」「安定した選択を繰り返していいんですか…」

こういった言葉はたぶん、満員電車で揺られている人で支えられている世界を見ないままなのだから言えるし、高齢の親や身体が不自由な家族が一人日本に残されることへの懸念がないのだから言えるし、安定した選択を取らざるを得ない事態がたまたま自分の身に降りかかっていないから言えるのだ。

特別でいられたのはすごい。自分が立っている高台を立派に見せられてすごい。"人と違う"というオーダーメイドのペンキでその高台を塗りたくってキラキラにできた。そのペンキは誰が買ったものなのか。全部一から自分で手に入れられたのならすごい。でも、多くは自分一人の力じゃない。自分一人で手に入れたと思えるのは幸福だ。近視眼的な幸福だ。

嫉妬だと言われるだろうか。行動もしないで口先だけ達者なのだと言われるだろうか。そう思われてもいい。思われてもいいけどただ、高台に登り詰めた人がすることは、他人をカテゴリー化して語ることではないということは断言できる。

かくいう私だって、こうやって文章を書ける時間的な余裕を与えられていることは、とても恵まれたことだと感じる。沢山の人に出会えて、いろんなことを考えられるのも、安定した環境が与えられているからだ。だから私も、"高台に登り詰めた人"を一緒くたにカテゴリー化することはしたくない。こういったカテゴリー化の精神は、私が危惧しているものと、本質として一緒になってしまう。

だから、「高台に登り詰めた人にこういうことはしないでほしい」という、"個別的な"訴えを唱え続けることにする。

高台の下、見たくない世界にだって、人はしっかり生きている。

 

沢山のことを考えた一年だった。いろんなことが起きて喜んだり傷つき続けたりした一年だった。

2020年はどんな年になるだろうか。高台を掘り崩したいわけではない。一人一人が自分に合ったレンズで、世界を見渡せれば良いなと思う。