ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

くちぐせ

f:id:SouthernWine29:20181108235646j:image

彼は、伏し目がちに喋る人だった。

口数は少なくても、言葉をひとつひとつ大切に選んでいることが分かるから、安心して話を聞いていることが出来る。

きっと、彼は少しだけ生きるのに不器用なだけだったのだ。

 

よく晴れた日、向こうのビルや街路樹の輪郭がステンドグラスみたいに鮮やかにくっきりと見えるテラス席で、彼は自分の言葉を探してくれた。「きっと、その感情は、時間が解決してくれるんだと、おもう」とだけ呟いて、またコーヒーに描かれた渦を黙って見つめはじめた。おそらく次の言葉をずっと、ずっと探してくれているのだろう。

その変わらなさだけでも、何だか彼に抱きしめられたような気持ちがして、思わず笑みがこぼれてしまう。

「ありがと、わたしもそう思う。考えても考えても仕方なくって、とりあえず動き出してみなきゃ変わらないなって思うんだけどね。なかなかそんなエネルギーも時間もなくってさ。だから、あの人がわたしに言ったことも、きっとわたしへのあの人なりの叱咤激励で、その痛いくらいの眩しさからわたしは逃げてしまっただけなんだろうな」

彼の前だと、一息でたくさん喋ってしまう。自分でも驚くくらい、たくさんの言葉が溢れて止まらなくなる。彼は人より喋らないだけで、ちゃんとわたしの話を聴いて、噛み締めてくれる。少しだけ言葉を選ぶのが慎重すぎるから、昔は、わたしがたくさんの言葉で無言の間を埋めているのだと思っていたけど、ただ、わたしが彼の前だとたくさん喋りたくなるだけなのだと気づいた。

彼はコーヒーに入れたミルクを、まるでガラス細工の職人のように、ひとつひとつていねいにほどいていく。じわっと溶け出して混ざっていくミルク色が、わたしの心の中に溶け込んできた彼によく似ている気がした。

わたしは、コーヒーに何も入れなくなった。

ウェイターがわたしたちの前を二回ほど通り過ぎた後に、彼は珍しくわたしのことをはっきりと見つめた。

「だったら、もうなにも気にせずに、きみがやりたいことをやるといいと、おもう」……「きみ」と言ったあたりで彼はまた目を伏せた。

他の人なら数秒で言ってしまいそうな台詞を、彼は彼の中で何度も逡巡した後にようやく口にする。そういうところが、わたしにはとても心地いいのだ。

 

 

たぶん、今は返事の速さとか行動力の高さへの価値が昔より大きくなったのだと思う。

素早く答えてくれることが嬉しいときも勿論ある。でも、たいせつなひととのたいせつな会話まで、テンプレートを貼り付けて片付けてしまうのは、少しだけ寂しい。

この先の人生の選択肢があっさりと消えてしまって、どうしたものかなと思って、でも、わたしのやりたいことは誰でも理解してくれることではなくて、そんなことはもうやめて俺のところに来ればいいよって言ってくれる人もいて、きっとその人はわたしのことを思っていてくれたのだろうけど、無意識に足がすくんでしまって、なんでわたしのやりたいことの方が価値が低いみたいな言い方をするんだよって、言われたそのときじゃなくてずっと後から思いはじめて、もうなにがなんだかわからなくなってしまった。

わたしと違う次元にいるひとは、ズラッと並べられた正論や成功体験がひどい言葉に見えてくることを知らない。わたしは大教室が苦手だった。試験やレポート提出のときだけ現れる人が苦手だった。たまに大学にやってくる偉い人が、大学時代はほとんど講義に出ていなかったよと言うのが苦手だった。

 

サークルで出会った彼は、講義中の机の上でいつも何かを書いていた。その丸まった背中を斜め後ろから見ていることでわたしは、大教室の空間に耐えることが出来た。一回サークルに早く来すぎて二人だけになったとき、何を書いているのか見せてもらったことがある。彼はしばらく折りたたんだルーズリーフを開こうとしなかったけど、彼の大好物であるコーヒー味のハーゲンダッツをあげたら、渋々ながら見せてくれた。

「いま曲を作ってるんだけど」と紙くずを投げ捨てるように言いながら、いつにもまして顔を赤らめながら目を伏せた。そうしたときの彼の睫毛の形が、とてもきれいだ。

「これ、自分一人で作ったの?」と思わず驚いてしまうくらい、彼の書いた歌詞は力強くて、今まで彼が選んでこなかった言葉が全てそこに詰め込まれているようだった。力強さを含みながら、やさしく隣で寄り添ってくれるような言葉たちが、ああ、彼が背中を丸めて書いていたのはこれだったんだな、と思わせてくれる。

「うん、自分のたいせつなひとに」目を細めた彼の笑顔を見るのは久しぶりで、そしてあまりにきれいだから、わたしは何も言えなくなってしまった。

「それって誰なの」と聞くことができないまま、サークルの他のメンバーが教室に入ってきた。彼はそそくさとルーズリーフを畳んでかばんにしまった。なんだかひみつの共犯者になった気分だ。

 

その曲のメロディを知ったのはずっと先だった。そもそも彼がギターを弾けることを知ったのも、そのときが初めてだった。

年に一度の学園祭の日。わたしたちのサークルは、それぞれが小説や漫画を描いて一つの冊子にまとめ、来場したお客さんに配っている。ありがたいことに固定のファンがついているらしく、学内の学生の分だけで冊子はかなり売れていく。

彼は冊子全体の編集を担当していて、いつも目次や全体のデザインを考えていた。彼のつくったレイアウトの上にわたしが絵を入れていく。学園祭の前はそういう日が続いていた。

講義棟の片隅の教室で、机の上に置いてあったわたしたちの冊子は、夕陽が差し込んでくる頃にはすべてなくなっていた。完売、今年の学園祭もこれで終わるんだ。

そこまで忙しい仕事ではないので、シフトに入るのもせいぜい同時に二人。最後の時間のシフトに入っていたのがわたしと彼だった。

オレンジ色の教室の片付けをしていると、壁に見慣れないギターケースが寄りかかっていた。

「あ、それ、自分の」珍しく彼の方からわたしに話しかけてきた。

「え、ギター弾くの?」とわたしが尋ねると、「うん、まあ、ちょっと」とまた目を伏せる。

「弾いてみてよ、こないだ見せてくれた曲を」

 

 

ずいぶんと長い時間が経った気がする。コーヒーに溶かしたミルクは、もうすっかり見えなくなってしまった。

「あのさ」わたしは言う。彼はそっと目を開けてこっちを見つめる。彼は、相手の言葉もじっと待ってくれる。決して急かしたり遮ったりしない。

「あの日聞かせてくれた歌、わたしに向けて書いてくれたんだね」

彼はびっくりしたように顔を上げる。

「さっき言ってくれた『やりたいことをやればいい』って言葉、何回もわたしに言ってくれた気がしてたんだけど、このフレーズ、あの歌に入っていたね。いま、思い出したんだ」

テラス席にも夕焼けが差し込んで、あの日輪郭がぼんやりとした教室の中でギターを弾いていた面影が、歳を取った今の彼と重なり始める。

「ずっと前から、わたしのことを応援してくれていたんだね」

肯定とも否定とも取れないような表情は、暗くなってきた秋の夕方に溶けてしまって、よく見えなくなった。

「きみの描く絵が、すごく好きだったから」

彼はまた、「きみ」への言葉を伝えてくれた。

「もう描けなくなってしまっても、あきらめてほしくなくて。描きたい絵を描いているとき、髪を耳にかける癖、ずっと変わってなくて、それもなんかすごく好きだったから」

今年の夏、わたしの右手は雨の道路を走るトラックに巻き込まれた。夢がこんなにも簡単に途切れてしまうことを、わたしは知らなかった。

背中を丸めていた彼ももう、歌を歌わないし作詞家でもない。

「でも、その左手で、髪を耳にかけることはできると、おもう」

彼はわたしの耳たぶにそっと触れた。今まで触れたことのなかった彼の手は、わたしの中にすっと溶け込んでくる。相変わらず丸まった背中のシルエットが、わたしのことを静かに見守ってくれる。

わたしは、残された手でそっと彼の手を掴んできれいな睫毛を見つめながら言った。

「わたしの右手に、なってくれませんか」

もうすっかり夜に包まれたテラス席で、わたしは彼の言葉を静かに待つ。大丈夫、わたしなら待ち続けられる。