ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

好き嫌いくらい一人でやりたい

「好き」を貫いている人は、なんだか格好いい。

私がなんだか憧れてしまう人は、自分が好きだと思うものを、周りにどう思われるかなんて気にせずに貫き通している。自分が好きなものに相手の評価なんて関係ないだろい、って背筋を伸ばしながら「好き」を守り抜くその毅然とした「好き」をもっている人は、なんだか格好いい。

 

今朝、電車で前に座っているサラリーマンのオッサンはスマートフォンで思い切り皆から見える角度でグラマラスな美女の動画を見ながらご満悦の表情を浮かべていた。正直気持ちわりいなと思うと同時にこれが強さなんだなと思った。オッサンだから別に憧れはしないのだけど。

一方私は満員電車で好きなアーティストの動画を見ることができない。高確率で誰かの視界に自分のスマホの画面が入ってんだろ、と思ってしまうため、イヤホンで聴くことしかできない。あと通信制限が怖いし。

 

私の膨れ上がった自意識は赤の他人からの視線ですら気にするのだから、知人からの視線なら尚更である。

 

先日、友人がこんな話をしていた。

彼はあるデザイナーのことが好きで周りにもそのことを公言している。よくその人のデザインしたものを身につけてくることもある。

ある日彼のツイッターのDMに「こいつダサくね?ところで俺の好きなデザイナーを発表する」といきなり何枚かの別のデザイナーの写真と共に送られたそうである。こんな形で押し付けられたものを好きになれるはずがない。私みたいにCDが好きな人に向かって「CDは高いし時代遅れだぜ、ストリーミング聞こうぜ」と言うようなものである。少し黙ってて欲しい。わざわざDMで言うあたりが気持ち悪さを増幅させている。

 

ここまで極端な例はほとんどないにしても、自分の安住の地にいきなり矢を放ってくる怖い人たちがゴロゴロいるものだから、いつからか自分の好きなものをそう易々と公言できなくなっている。

趣味垢という存在もそうである。わざわざアカウントを分けることで、石を投げてくる人が紛れ込んでくるリスクを減らしている。そういう人もいるのではないか。

 

何故、自分が好きなものに関して他人の視線を気にする必要があるのだろう。

この疑問が頭の中にあるうちはまだ私がまともなのだと分かる、いい判断材料である。ちょっと自信がなくなっている時とか、めちゃくちゃ他人の視線を気にするようになる。この音楽やこの本が好きと言おうものなら誰かが石を投げてくるのではないかという、被害妄想甚だしい自意識がどんどん膨れだす。

 

結局、一人で好きになることが出来ないのかもしれない。というか、周りにどう思われるか分からないものを、好きだとはそう簡単に言えないのである。

 

槇原敬之の言わずと知れた名曲『どんなときも。』のサビはこういうフレーズである。

どんなときも どんなときも

僕が僕らしくあるために

「好きなものは好き!」と

言えるきもち 抱きしめてたい

すごく普遍的でありながら、何か大切なことに気づかせてくれるような私の大好きなフレーズである。

そのひとの「好きなもの」はそのひとの今までの生き方、考え方をクリアに映し出していると思う。好きなものを「好き!」と言うことは、「自分は世界をこんな風に捉えている!」ということをダイレクトに伝えてくれる。

だから、「『好きなものは好き!』と言えるきもち」は、確固たる自分なりの世界の解釈に依拠して成り立っている。つまり「僕が僕らしくあるために」、他人に流されずに自分の世界の捉え方を忘れないように、「好き」は周りに流されずに主張し続けていきたい。

 

同曲の冒頭はこのような歌詞である。

僕の背中は自分が思うより正直かい?

誰かに聞かなきゃ 不安になってしまうよ

この曲の主人公もたまに自分を見失いそうになっていて、だからこそサビのフレーズに繋がってくるのだと思う。

 

 

逆に、時に自分の「嫌い」を振りかざすことで自分を映し出すこともある。

「好きなものが一致している人より嫌いなものが一致している方が仲良くなれる」ということはよく言われる。好きなものは趣味にとどまるが、嫌いなものは自身の価値観に関わってくるものだからだ。許せないことが一致している方が衝突も少ない。私も自分との齟齬が少ない人と仲良くなりたい。

 

だが、「嫌い」も一人でやるべきことである。

 

誰かを巻き込むことで寄ってたかって攻撃することしかできないのなら、それは周りの顔色を伺いながら嫌うことしか出来ないということなのだから、もう自分が死んでいる状態である。

 

好き嫌いはそのひとの自由だし誰もが持つものだ。だから当たり前だが、自分の「嫌い」を大切に思っている人がいるかもしれない。自分の「嫌い」は押し付けたり振り撒いたりできるほど綺麗なものではないということを覚えておきたい。ましてや、それを好きな人に対してダイレクトに自分は嫌いだと言うことは、この世の中で一番無駄で唾棄すべき行為であると思う。そんな形でしか自分を主張できないということを語っているだけである。

 

残念ながら、好きなものが増えると同時に嫌いなものがそれ以上に増えていく。つまり歳をとるにつれて嫌いなものがだんだん増えてくる。

好きなものには、ある程度それと相対するものが存在する。何かを好きということは、相対するそれを嫌いということである。

だから、自分の「好き」を言い続けていることで、同時に自分の「嫌い」も裏で表現することができるので、わざわざ表立って「嫌い」の方から主張していく必要はない。私はそう思う。

 

これは人や物への捉え方も似ていて、そのひとや物の欠点はいいところの裏返し、言い方を変えただけなことが往々にしてある。「ケチ」を言い換えれば「倹約家」であり、「引っ込み思案」を裏返せば「謙虚」であるように。

だから、わざわざ欠点から探しにいく必要もないだろうと思う。いいところを探すだけで、私は十分幸せに生きてこれたし、これからもそうでありたい。綺麗事だと言われるかもしれないが、自分の嫌いなものの嫌いなところを裏返しで魅力として言える可能性がある以上、その点を好きな人が居るということを忘れないでいたい。

 

さあ、好きなものの話でもしましょうか。

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