ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

空白の日記

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すごいな、私には絶対にこの人のようになれないと思うタイプの人がいる。何かを毎日続けることのできる人である。

 

毎日きちんと日記を書いている人はすごい。私も曲がりなりにも文章好きを自覚しているものだから、言語化をサボらないように毎日少しでも何かを書こうと試みてはみるものの、早くて二日で挫折してしまう。三日坊主も聞いて驚く飽きっぷりである。今でも引き出しには4/1と4/2の日記だけ書かれた手帳が眠っている。4/3が忙しかったわけではないと思うが、もういいやって思っちゃったらしい。そういや手帳に予定をこまめに書く習慣も二ヶ月くらいで終わってしまった。一度習慣を止めてしまうと、復活には膨大なエネルギーを必要とするのは私の悪い癖である。変なとこで几帳面だから、少なくとも来年の4/3が来るまでは日記を復活できる気がしない。その頃には手帳を変えているだろうし、もはや手帳を買っていないかもしれない。

どれだけ大好きなことでも、一日二日やらずに終わることがある。何も書かない日はあるし、本を読まない日だってある。春頃は毎日短歌を詠んでいたけれど、今では気まぐれに詠んでみる程度のペースである。サボるというよりは、「あ、うっかり忘れてた」で一日が終わるパターンが多い。

自分の生活を別に誰に見せているわけでもないのに、毎日続けようとすると変な義務感が生まれてしまうことはないだろうか。別に誰に迷惑をかけるわけでもないのに、何日も連続でやってきたことをストップするのはとてもストレスフルなことである。

 

で、一般的に言われることは、そんな義務感を感じてしまうようなことは心から楽しんでいるとは言えないからやめちまえというものである。無理に偉人たちの本を毎日読む必要はないし、毎日寒い中家の外を走り回る必要もない。こんなことを言うと怒られそうだが、偉人たちの書く文章はたまにめちゃくちゃつまらない。つまらなくしているのは私の知識不足なのだということは重々承知しているが、思い切り現代を生きている人間にとって全く響いてこない箇所があることは事実ではなかろうか。全然良いと思ってないけど偉人だからまあ良いものなんじゃねって誤魔化してる人が私の他にもいると信じている。

ちなみにコーヒーにも似たような感情を抱いている。私の舌が馬鹿なのは事実だが、コーヒーという液体は私にとってはただ苦いだけの液体に過ぎない。コーヒーというものが持つなんとなくカッコいい雰囲気を自分の中に飲み込むためにコーヒーを好んでいる人が私の周りにもいるんじゃないの?これ以上は怒られるか。

運動嫌いの私からしたら、毎日ランニングを続けられる人はマジですごい。その精神力は並ではない。私なら一日で終わる。寒空の下肢体を動かすという拷問を自ら課すほどの元気がない。

 

話が長くなったが、義務感を感じるならやめちまえと言われると私は大抵のことをやめなければいけなくなるなあって思う。悲しい人間なのかもしれない。どんなに好きなことでも、ある日少しだけ面倒に感じる瞬間はありませんか。

それでも習慣だからやってしまうという人もいるかもしれない。でも少なくとも私を含む怠惰な人間は誰にも見られてないものだから、わざとうっかりサボる。「うっかり」を装うことで毎日続けてきたことをやめるという一種のストレスを軽減させることに成功させている。私は怠惰レベルが高いので、そのメカニズムが二日や三日で働く。本当に、何かが続いた試しがない。

どんなに好きなことでも、ちょっとやめたくなる瞬間がある。今日はそれじゃないよなあって日がある。あまり世間で言われていないことなので、私だけに当てはまることなのかもしれないけど。

そしてタチが悪いのが、周りは私がそれを好きだと思っているだろうから急にそれをやめるのは変に思われそうだなあ、という抑制が働くことである。

 

大学生活はこういう罠に引っかかる瞬間が増えたような気がする。大学生は割と好きなことができる。やりたいことをやるのに最適な期間だというのも肯ける。しかしその分、自分の「好き」を自分でマネジメントしていく必要が出てくる。自分で選んだことだから、なんとなく好きであり続けなければならないような気がしてくる。今日はその気分じゃないので、って断ることが何だか出来にくくなる。そんなことありませんか。

もしくは、やってみたら思ってたのとは違うなと感じたものの、引くに引けない状況に陥ることもある。好きなことをやれるというのは、全ての選択が自己責任ということでもあるから、一度踏み込んだ世界から退散する際の後処理を自分でしなければならない。

 

こう思った理由として、小学生時代は毎日飽きずにゲームをしていたなと思い出したことである。あの時代のゲームという存在は、面倒な学校から帰ってきたときに出来る娯楽という一面しかなかったものだから、変な義務感が生じることもなく、というか毎日続けようという意思すら持たず、毎日続けることが出来ていた。

それに対して大学生になった私は、何かもっともらしい理由をつけて「好き」を持続させていることが、毎日交代で一つや二つあるような気がする。

ここで注意したいのは、一度「好き」に疑惑が生じたとしても、復活する機会が往々にしてあるということで、大抵の事象はこのパターンに収束する。昨日はあの本を読むことに飽きていたけど今日は音楽に飽きている。そんな感じでコロコロと交代交代でモチベーションが変化する。

この文章を書いたのも、先日まであらゆる趣味が面倒に感じる暗黒期を体験していたのが理由である。なかなか生きている心地がしなかったものだ。けれど一度失いかけた「好き」は最近あっさり復活した。

 

こういう風に熱しやすく冷めやすい人間だから、どんな状況下でも日記を書き続けられる人はやっぱりすげえなって思う。私だったら日記に飽きるような日も数日くらいある気がする。

それとも、一度中断したことを復活するのをもう少し容易く出来るようになればいいのだろうか。日記も別に多少途切れた日があったって、空白の日があったって、それでも日記じゃないか、と思うことが出来れば、変な義務感も生まれないのだろうか。

このブログも書きかけの下書きがいくつもある。前述の通りモチベーションの波が激しい人間だから、少し書いて下書き保存したら熱が冷めちまって続きを書けずにいる記事がいくつもある。なんならタイトルだけつけて満足して眠っている記事もある。タイトルをつけるという行為は無茶苦茶楽しい。これは飽きる気がしない。タイトルだけつけて作詞も作曲もしていない虚無のような楽曲が私の架空のアルバムにはいくつか存在する。いつか紹介したい。

 

ちなみにこの記事は数十分で一気に書き上げたタイプの記事です。飽きるはずがない。今回は自分でも結論めいたものを出せていないタイプの内容なのでダラダラ長くなってしまって申し訳ないが、たまにはいいよね。