ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

壊れる

f:id:SouthernWine29:20181030195103j:image

近年、ハロウィンというものにネガティブなイメージを抱かれるようになっている。先日も渋谷のハロウィン騒ぎで羽目を外しすぎた人々がトラックを横転させた事件が物議を醸している。放置されるゴミの山、相次ぐ器物損壊、暴徒化する群衆。もはやこれはハロウィンではない、バカ騒ぎしたいだけの意味のない中身のないくだらないイベント、日本の闇、笑止千万、愚の骨頂。散々な言われようである。渋谷区の方も、この騒乱は経済効果より弊害の方が大きいと判断し、規制を強化する方針が固まったことを表明した。

 

ハロウィンに限らず、人々が固まると誰も意図していなかった暴力性が表出することがある。多分、自分一人ではトラックを転がすこともラーメン屋の券売機をぶっ壊すこともできないと思う。犯人が明確に割れてしまうからだ。しかしここでハロウィンという舞台設定が重なると、こういう行動を取っているのはどうやら自分ではない何かであり、自分は集団の中の一要素に過ぎないと思うことが出来るらしい。これは群集心理の収斂説と呼ばれるもので、ある共通した興味関心を持っている人々が、共通の刺激状況の下でその潜在的な興味を一斉に顕在化させるために、人々の間に心的同一性が見られるようになるのだという。ここでは共通の刺激状況というものは勿論、渋谷のスクランブル交差点の喧騒とハロウィンという仮装イベントであるが、暴徒化した群衆が共通して持っていた興味関心とは一体何のことであるのか。これを単なる暴れたい欲求だと片付ければ話は早いのだけど、問題はもう少し根深いところにあるように思う。

 

酒を飲むと性格が豹変する人は一定数居る。酒を飲むことで顕れる性格の方がその人の本来の姿であると捉えられることが多い。酒を飲んで豹変しているのがその人一人という話であるから単純明快なのである。これに対して群集心理は、集団に乗っかることで自分ではない「誰か」ーー明確な誰かを指すのではなく、自分の行動を考える上で仮に置かれた他者のことを指すーーが原因で自分の行動も操られていると錯覚することができるため、今自分がしている行動イコール本来自分が意図していた行動になるとは限らない。イギリスの心理学者W.マクドゥーガルも群集心理の特徴として、衝動性や暴力性、性急な判断と共に自我意識の喪失を挙げている。ハロウィン狂乱に飲み込まれている人々は皆、自我を喪失しているのである。こう書くと話が大きくなってくるし下手なホラー映画じみてくるのでハロウィンとしてはピッタリなのであるが、なかなかどうして本当に自我を失った人間が現れているように思えてくる。

 

では、一体何が暴力的な行動を企図しているのだろう。どういう影響力が人々を破壊的な行動に向かわせるのであろう。ここでヒントになると思われるのが、成人式で暴れる若者の姿である。成人式は一応公的なイベントであるから、渋谷ハロウィン的無法地帯イベントとは相反するものであるように感じられる。しかし一部の人間の行動の帰結として暴走者が現れるという点が共通しているのは面白い。群集心理的には多くの人間が静かに座っているという状況下で暴れ出すのはストレスも大きく、あまり自然だと思えない行動である。目立ちたかっただけだろ、そう片付けることしか出来ないように思うし私もそうだと思う。

これに対して、渋谷ハロウィンで暴れたところで大して目立つことはない。むしろ渋谷ハロウィンというイベントによって自分の暴力行動はマスクされてしまう。だから目立ちたがり屋がどんどん暴力性をエスカレートさせていって、法に抵触するような行動にまで至ったと見ることはできる。でも目立ちたがり屋にとって、渋谷ハロウィンというイベントはむしろ自分を隠してしまう点で不都合なイベントであり、だったら成人式やその他静謐さが是とされるイベントで暴れた方がコスパが良いものである。

 

こうした点から考えると、渋谷ハロウィンで暴れている人間の正体は、目立ちたがり屋というよりも目立ち方がよく分かっていない人々であると結論付けた方がより正確なのではないかと思う。静かに座っている集団に逆らって暴れるほどの勇気がない人々が、どさくさに紛れて暴れた結果、成人式の連中よりタチの悪い行動を引き起こすことがある。あのような暴力的な行動は、単なる暴れたい欲求から来ているのではなく、静かな場では暴れられない中途半端な理性を持つ人々が、非日常的な空間にて壊れてしまった結果なのかもしれない。

 

理性を持っていたはずの人々がぶっ壊れる瞬間というのは恐ろしいものがある。真面目だと思っていた人がベロンベロンに酔ってる姿、俺は好きなんだけど、冷静になって見てみるとちょっと怖いかもしれない。しかし俺もちょっとだけぶっ壊れてみたい。大人はぶっ壊れられなくなっただけの子どもってどこかで聞いたことがある。そういう大人がちょっとだけぶっ壊れる場として渋谷ハロウィンみたいな場所は機能すればいいと思う。法に触れないうちは猫も杓子もぶっ壊れる日と場が用意されていてもいい。積もり積もった暴力がトラックをひっくり返している現状を見ると、成人式で暴れている連中の方が健全に思えてくる。

 

ずっと暴れないでいられる人が一番素敵なことに変わりはないし私はそういう人でいたいので、そこは誤解なきよう。