ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

主人公

f:id:SouthernWine29:20181003211937j:image

謙虚でありたいと思っている。

というか、謙虚でいれる自分が好きだから、謙虚でありたい。

 

自分で言うのも何だが、私は聞き分けのいい子どもだった。

怒鳴られること、憎まれることはエネルギーの無駄、せめて自分が長く居る場所は居心地の良いものにしようと、大人や先輩の言うこと、同級生の言うことには反発もせずに従い、私は何も考えていないですよみたいな感じでニコニコしてやり過ごしていた。今考えると、生意気さのかけらもないところが逆に生意気に思えるような、そういう子どもだった。

自分は誰からも嫌われていない優しい人間。そういう自分が好きだったのだと思う。

 

だからこそ、自分に素直に生きられる人が心底羨ましかった。自分の思っていることを言えて、自分のやりたいことを押し通せる、要するに周りを顧みない、自分に自信のある人が羨ましかった。そして、そういう人に傷つけられてきたのだと思う。

 

どうしてそんなことを言うんだろう、と傷つくことがいくつもあった。どうして自分がこんな扱いを受けなきゃいけないのか、とムカついてその日の夜にベッドの上で空気を蹴ったこともあった。やけ食いをすることはなかったけど、よくコーラとか三ツ矢サイダーを一気飲みすることはあった。おかげで炭酸には強くなった。

都合のいい頭をしているので、寝れば大抵のことは忘れられたけど、それでも自分を傷つけてきた人のことを苦手に思う気持ちが消えることはない。本人たちに私を傷つける意思はなかったのだろうけど、自分が大切に思っていることを否定してきたり、自分が好きでやっていることを自己満足だと嘲笑ってくる人はどうしても苦手だった。

 

きっと私もその人たちのように生きられたら喧嘩も出来たのだと思う。

勿論できれば喧嘩なんてしたくないし、喧嘩するほど仲が良いなんて言葉は大嘘だと思っている。自分の許せないことをわざわざしてくる人とは付き合いたくないし、喧嘩にならなそうで自分の好きなものを尊重してくれる人とだけ付き合いたい。

だけど、そういう喧嘩じゃなくて、自分の思っていること、大切にしているものをちゃんと言い合って、それをお互い尊重していこうという決意表明的な意味を持った喧嘩をしたことが、どれだけあっただろうか。

全面的に相手に乗っかるような生き方をしてきたので、自分の思っていることを言ったことはほとんどなかった。嫌われるくらいなら黙っている方がいい。自分の中に渦巻いた憎悪は自分の中で処理するのが一番効率がいい。そんなことを年齢が一桁のときから無意識にやっていた。意見を言うことを積極的に求めてくる授業が苦手だった。みんなの前で自分の意見を言うくらいなら、窓から飛び降りた方がマシだと本気で思っていた。外国に生まれなくてよかったと思った。受動的に授業を聞いていればまあまあ安定した道が用意されているのだから。

 

 

だけれど最近、本当に最近、少しだけ自分の思っていることを言えるようになった。二十歳を目前にして、自分の生き方が変わった。

その代表格とも言えるのが、今ちょうどやっているように文章を書くことである。文章を書いて誰かに見せて、一人でも何か言ってくれることが嬉しかった。私が意見を言葉にして書いても許されるのだと気づき、何か十数年私の手足を縛り続けた手錠のようなものが剥がれ落ちた気がした。

そして気づいたことは、自分の意見を言うことはやっぱりとてもしんどくて出来ればニコニコしながら過ごしたいけど、たまにやる分には、何より自分のためになるのだということだ。

 

聞き分けのいい子どもだった自分が、より子どもっぽくなった瞬間だ。私は文章を書いて泣き叫んでいるようなものなので、赤ん坊がミルクを求めて泣くのと同じように、私も自分の欲求を満たすために文章を書いている。

 

こういう、自分の欲求を実現させるために行動できる権利が、俺にもあったし、全員にあるのだと思った。ある人はどこか旅に出て、ある人はスポーツや芸術に打ち込み、ある人は遊びに興じる。そのどれもに貴賎なんて無いと思うし、少なくとも他人が口出しするようなものではない。「それは自己満足だ」という横槍の入れ方はナンセンスだ。だって行動の一つ一つが自己満足に基づいているのだから。他人に嫌われたくないというその生き方が私の「自己満足行動一覧」の中には入っているので私は誰かと衝突する道を選ばない、というだけの話なのである。一人で生きていけるほど強くはないので、みんなと衝突することなく過ごしている自分が好きで、そうあり続けたいから謙虚であろうとしている。

 

つまり、誰かと衝突してはいけないと、その命題を絶対視していた子ども時代に対し、誰かと衝突しないという生き方が好きな自分の存在を客観視することが出来るようになったのだと思う。仮に、いろんな人と衝突することで自己満足を得る人がいるのなら、過去の私は疑問に思っていたのだろうけど今はもう思わない。

 

誰にも嫌われないようにニコニコしている生き方を私はとても好きだけど、それが絶対というわけではないんだよ、と子ども時代の私に言いたい。ニコニコしてられない状況だな、と思ったときは生き方を変えてしまえばいい。その生き方の変更を止めるものは、決して周りではなくて自分だけなんだよということも。

 

誰もが自分の物語の主人公として動いていて、他の人は誰もその人の物語の中で主人公以上の存在になって物語の軌道修正を指図することはできない。それぞれの物語が、主人公の好きなように進んでいけるような関係でありたい、と思ってしまうのは綺麗事だろうか。