ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

虹をかける天才

f:id:SouthernWine29:20180913151047j:image

私は自他共に認める雨男である。

ハレの日である入学式や卒業式、たのしい遠足や修学旅行も大体雨だったし、荷物を運ぶのが大変な引っ越しの日も雨、ディズニーランドも雨景色を見た日の方が多い。私が出かける日は空模様がよろしくない日が多い。私の上を一緒に雨雲が移動しているんでしょ、と言われるくらいの雨男である。マリオのジュゲム的な。

 

この話をすると案の定、「雨の日のことを覚えているだけで実際は晴れの日も多かったでしょう」と水を差してくる人がいる。確率論的には正しいけれども、わざわざ口にすることではない。そういう人は以前私が書いた「理性の侵食」そのものである。

(参照)

 

それに対して、以前ある友人が私に言ってくれた言葉が今でもすごく好きだ。

 

「雨男ってことはさ、虹男ってことでもあるよね」

 

雨という暗いイメージの先にある虹に友人は着目し、一見ネガティブなものに思える雨男を虹というポジティブイメージでひっくり返した。

こういう発想のできる人が、私はとても好きだ。

 

突然の雨、計画が崩れる。あーあ台無しだよ。普通はこう思うし、私だってこう思ってしまう。でも、虹男の発想ができる人は、この後綺麗な虹を見られるんだから良かったじゃないと言うことができる。まさにどんよりした空気を晴らして虹をかけるのが上手い人って、たしかに存在するのだ。そしてこれは練習すればすぐに出来るようなものではなく、いわゆる天才の域でもあるように思う。

 

文句や不満をすぐ口にするのは簡単である。雨が降っているから傘をさすようなくらい自然に、自分に降りかかった困難や不幸に対して、ついてないなって思うことは簡単だ。傘に隠れて雨雲を睨みつけるのは誰にだって出来る。

対して、自分に降りかかった雨に対して、その後に見えるであろう虹を想像して、わくわくできるような人はどのくらいいるだろう。私はそういう人になりたい。

 

 

先日、友人達と何人かで遊びに行こうと企画した時に、直前まで遊びの内容が決まらないことがあった。とりあえず皆には会いたいのだけれど、どこに行きたいという強い意思があったわけでもなく、なかなか細かい内容を決められずにいた。私はいくつかの場所を調べて提案して、無事に計画を練ることができた。一安心である。

その後、友人の一人から行けなくなってしまったという連絡が来た。なんとか予定を調整して会ってくれようとしたみたいだけど残念ながら。仕方ないことである。

けれども、その友人はもう一言私に言ってくれた。

「色々沢山考えてみんなに提案してくれてありがとね」

 

ああ、この人は虹をかける天才だって思ったのをよく覚えている。何だかこの言葉がすごく嬉しかったのだ。

遊びの計画を考えることは好きなので、今回の提案も全然苦だったわけではない。楽しくなるといいなあ、とわくわくしながら色んな場所を調べているのは、自分だけの宝の島の地図を描いているようで楽しかった。

 

けれどもこの人は、自分が遊びに行けなくなってしまったというそのタイミングで私にありがとうと言ってくれたのである。

遊びに行けないという悲しい雨が降り出したその時に、「色々考えてくれてありがとう」という明るく優しいポジティブな言葉で雨雲を晴らそうとしている考え方が、繰り返すが私はすごく好きだし、思い返してみるとこの友人は以前から虹をかけるのがすごく上手かった。

 

前から、私が髪を切った時とか新しい小物を使い始めた時に必ず見つけて褒めてくれる人だった。雨が降っていなくても虹をかけるのが上手い人なんだと思うし、そういうところが好きだ。

 

今日も雨が降っている。悲しくて辛いことの先には虹が待っているという無責任なことを言うつもりはない。だけど、そう信じて周りの人の心に宿る雨雲まで晴らしてくれるような人に、出会えて良かったなと心から思う。