ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

八月の詩

「愛で向日葵が揺れている」

 

何人かの人に、好きな月は何月ですかという質問をしたことがある。自分の誕生月を答える人もいるし、好きな季節が春だから三月などと答える人もいる。この手の質問をすると、その人が季節に結びつけてきた思い出たちの重みや移ろいゆく景色へのアンテナがどこに一番反応するかが分かるようでとても面白い。月と人間というテーマについてはまた稿を改めて書きたいのだが、ところで私の周りには八月生まれが多い。ウォークマンをざっと見ても「八月」がタイトルに入った曲が一番多い。どうやら私は八月に惹かれる傾向にあるらしい。

 

今回は、八月が訪れると何度も聴いているサザンオールスターズの「八月の詩(セレナード)」という曲をもとに、八月について書きたい。冒頭にも書いた「愛で向日葵が揺れている」というフレーズで、同曲は始まる。向日葵を揺らすのは風でも太陽でもなく愛なのだと桑田佳祐は歌っている。

 

「愛で向日葵が揺れている 一度は破れた恋なのに もしも許されて逢えるなら 大事な命も惜しくない」

ミディアムテンポで進んでいく曲の出だしに、情熱的な歌詞が並んでいる。かつては愛し合っていた二人が、おそらく主人公のせいで離れ離れになってしまった。会えるならば自分の命を差し出すと言えるくらいに、愛した人への想いは強い。

その後の歌詞でも、「涙で星屑も滲む空の下」、「夕陽にほほ寄せ口づけた 海辺のテラスは色褪せた」、「今夜茅ヶ崎に帰るなら 君の幻想(まぼろし)に抱かれたい」と、四六時中「君」との思い出が頭をよぎっていく描写が続いている。ある季節、ある場所に訪れたとき、愛していた人の姿が頭から離れなくなる、恋歌によくある回想型の歌詞である。

 

これは私の推測であるが、愛していた人はもうこの世界を生きていないのかもしれない。再び会えるのが許されるということは、自分もこの世を去ることを意味している。このような解釈をすると、出だしの歌詞部分に詰まった気持ちがより強い鼓動を持って動き出す音が聞こえてくるようだ。夏のイメージが強いサザンだが、この曲はどこか陰があり湿り気を帯びた曲調で終始進んでいく。 

 

桑田佳祐が歌詞の舞台に七月でも九月でもなく八月を選んだのはなぜか。それは、生と死の輪郭が一番ぼやけて衝突を繰り返すのが八月だからではないか。「ふと目覚めたら浮いていました」みたいな危うさが、熱波以上に押し寄せてくるのが八月なのだ。

 

花火が華々しく咲き誇ったあとの時間が無限に引き延ばされたような夜空の空白は、死の比喩ではなくて何であろう。人の命の灯がついては消えてゆくような短い光も派手な光も、それがあなたの人生でしたと数十分の打ち上げ花火が肯定している。祖先の魂が愛していた場所に帰ってきやすいように、迎え火のごとき花火が打ち上げられているという話が私は好きだ。すべての人生への肯定がそこにはある。

八月は多くの日が生きることを休む日、休日である。猛暑日の昼間、エアコンの下でうたた寝するとき、人生が止まっていると言われても驚かない。生物としての本能に思い切り逆らう形で睡眠を貪る、そんな限りない贅沢が充満した八月は、生きることをちゃんと一時停止している。何を言っているかわからないというひとは、きっと不気味なほどに静かな昼寝の経験がないのだろう。九月一日の自殺率が高いのは、一度一時停止した映画を再生し直すときの、あのわずかな気怠さによるものだと私は思っている。

ましてやそんな八月に残された思い出という名の爪痕を、忘れられるわけがないだろう。「八月の詩」が歌っているのは単なるひと夏の恋物語ではなく、死に最も近い季節に埋め込まれてしまった思い出がもたらす、果てしなく優しい暴力ではないか。

 

生と死が絶えずせめぎ合う交差点としての八月、誰かの人生に爪痕を残すということの意味を見つめ直す時間にしたい。