ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

線路の先に

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私は家から大学まで往復3時間かけて通っている。一日の8分の1を電車で過ごしていることになる。「辛くないの」とか「もっと近いところに住まないの」とよく聞かれるけれども、電車に揺られているだけで時間が過ぎ去っていくのは割と心地よいので、しばらくはこの生活を続けていくのだと思う。これは、電車が好きということとは少し違う。車種や駅名や路線の行く先などの子細な知識は全然持っていない。地図を見ないと自分がどこを走っているのかまるで分からない。では、電車に乗ることの何が好きなのかと聞かれると上手く言葉に出来ないのだが、「線路の先に必ず人がいる」という事実だ、としか言いようがない。線路がそこに敷かれているということが、その先に居るはずの人々の生活を描き出している、と言ったら大袈裟だろうか。

我々はどんなに急いでいるときでも、この敷かれたレールの上しか動くことができない。よく考えると不思議なことである。飛行機や高速道路やバスも決まったルートの上を移動するだけで、我々はそれらを組み合わせることで目的地に向かうしかない。遅刻しそうなとき、親戚が危篤のとき、誰かにふと呼び出されたとき、どんなに急ぎたいという思いが強くても、規定以上の速度で辿り着く事は出来ない。早く行きたいという気持ちに比例する形で移動速度を調節できるような、どこでもドアの一歩手前みたいな機械の登場が21世紀中の課題なのかもしれない。

しかし、私は決まった速度で走る電車にその役目を終えて欲しくはないし、終わってはいけないと思う。科学技術の発展の恩恵に与り、人間はもう十分急ぐことが出来る。瞬間移動を自由自在に行えることは、座席に腰を下ろして一息つく時間の消滅を意味する。車窓を流れゆく景色に、車内で偶然居合わせた人々の生活に想いを馳せる時間の消滅を意味する。

そう、私はこういった時間が愛おしくて電車通学を続けている。

届けたい言葉は電子化されてすぐに送れるようになった現代、線路は人々を急いで運ぶための道具としての役目を終えている。冒頭に述べたように、線路は人々の生活を生活たらしめている極めて大切なパーツである。線路が先に続いている限り、仮想空間上ではなく直接顔を向けて会いたい人が、その先に確かに居るという事実を実感させてくれる。線路が電車を支えている限り、人々の逸る気持ちを暴走させずに、落ち着いて「現在」と向き合う時間を失わないでいられる。逆説的だが、最初は人々の移動の速度を上げるために生まれたはずの線路が、人々を急がせすぎないためのものに変わっている。話したい人とはいつでも話せるし、顔を見たかったらビデオ通話ができる。それにも関わらず線路が続いているのは、直接人と会うことの喜びが、切なさが、まだ人々の生活から失われていないことを意味している。

だから私は、今日も会いたい人に会いに行くために、鈍行列車に飛び乗った。