ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

時計のゾロ目と流れ星

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時計を見ると「わ、ゾロ目だ」ってなることが本当に多い、とよく人に言っている。

これに対しての返答は、多くが「ゾロ目になった瞬間をよく覚えているだけで、実際はゾロ目じゃない瞬間を見ていることの方がよっぽど多いよ」といったものである。

 

正直、「うるせえ、わかっとるわ、そういうことじゃないんじゃ」って感じだ。

どう考えても正しい論理的な結論に背中を向けたくなる機会が、大学生になってから増えた。太陽は眩しすぎるから直視してはいけないのと同じように、論理が完璧すぎるから逆に目を逸らしたくなってしまう。

もちろん、論理的に物事を考えるのは大切である。すべての人間が感情の赴くままに動いていたら間違いなく大変なことになるし、論理的に考えた上で得られる結論は、ほとんど正しい。「ゾロ目じゃない瞬間の方が多い」論だって、どうしようもなく正しい。確率的にそう。この文章を書いている時だって何度か時計を見てきたけど全然ゾロ目になりやしない。私の負けです。

 

でも、なんつーか、そういうことじゃないんだよなあ。

このモヤモヤ感の正体は何だろうと思っていたときに、ある人がくれた言葉がモヤモヤを晴らしてくれた。

 

「人は理性でなく感性で生きていることを忘れてはいけないと思う」

これである。

 

感性の領域に理性が浸食し始めている現象を目にすることが増えた。私はこの現象を「理性の浸食」と呼んでいる。今名付けた。

理性とは、すなわち論理的であることで、何事にも「なぜ?」を大切にする。

繰り返すが、理性もとても重要だと思う。非合理なのに何故か残されている慣習みたいなものは絶えず問い直されるべきものであるだろう。こういった姿勢が今までの状況を劇的に変えることがある。発明は理性なしには成し遂げられなかったものであるはずだ。理性は、暗闇に閉じ込められている人々を救うために、壁に穴をあけて光を取り込む削岩機みたいなものだと思っている。

 

しかし、この理性という削岩機は必要のない岩まで削り、必要のない光を取り入れ始めているのではないか。

あえて暗闇のままでいることを選んでいる人々に無理やり光を差し込んだところで、いい顔はされないだろう。先ほどの太陽の比喩ではないが、いらぬところまで眩しい理性の光は、こういう場では歓迎されない。

理性の光は自分の放つ光の眩しさに気付いてないことがあるし、そもそも光が時に人を遠ざけてしまうことがある可能性にすら思い至っていない。

 

こうした「理性の光」と「選択された暗闇」の構図を考えていて想起するのは、流れ星である。

流れ星を見たことは、時計のゾロ目を見た経験より少ない。大概の人がそうであると思う。流れ星を目にしたときの記憶は何でもない夜空を見たときの記憶よりずっと鮮明に残っているはずだ。「しかし」と言えばいいのか「だから」なのか、「流れ星の瞬間をよく覚えているだけで、実際は流れ星じゃない瞬間を見ていることの方がよっぽど多いよ」と横槍を入れる人はほとんどいない。当たり前か。いや、これは救いである。私はそう思う。

「時計のゾロ目」と「流れ星」の間には、ロマンチックさに雲泥の差がある、と言われるだろうか。あまりにも性質が異なるこの二つを同じ土俵で語ること自体がナンセンスだと言われるだろうか。でも声を大にして言いたい。いずれ流れ星も時計のゾロ目と同じように片付けられてしまう日が来るよ、必ず。

街明かりが夜空に光る星を隠してしまっている事実を思い出してほしい。夜道も歩きやすいように生活しやすいように光を設置することは、正しい。理性がまたひとつ光を灯した瞬間だ。しかしこの光が「選択された暗闇」を消してしまった。流れ星を目にするチャンスを奪ってしまった。

 

理性の浸食とは夜空の流れ星を楽しみにしている人々の目を眩ませる場違いな光のことであり、時計のゾロ目はその犠牲者の一人だ。感性の暗闇の中に燈る光芒が消し去られたとき、世界はいよいよ眠れない夜を過ごすことになり、人々は身をやつしていくことになるだろう。そんな状況じゃAIに取って代わられても仕方ないよな。

 

今の時代だからこそ強く思う。感性で生きていることを忘れてはいけない。