ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

まっすぐに傷

スクロール 明滅してる起業家の刃渡り5kmの顔

新聞の裏で刺された血塗れの誰かは〈誰か〉であり続ける

やさしさは他人の定規の上に立つ ミリ単位でも調整できる

5番線 黄色い線の内側でたまたま立っていただけと言う

もう二度とオーダーメイドの憂鬱に触るな 気安く脱がせてくれるな

出来立てのストーリーラインを披露してやるから100万さっさとよこせ

星空を除光液で塗りつぶす 生きてる意味もここでは不問

知らないよ知らない街の知らない子の瞳に映っている不貞

自己と他者 定規の線で分け続け浮かび上がる夜空の星座

ドーナツの真ん中みたい 永遠と誰かのために怒っているひと

あったかい大陸だけに降る雪のように気軽な場違いであれ

地球ごと背負って考え込まないで明日の鍋の味を決めてよ

モラル・パニック・ユートピア

「先生、○○くんが□□ちゃんのことを無視しているんです」と生徒の一人が言った。

「それはよくないね。○○くん、何があったの?」先生は○○くんの方を向く。

彼は何も言わなかった。□□ちゃんのことを苦手に思っている彼は、何も言うことが出来なかった。無視をしているというより、関わりたいと思わなかったのだ。

先生は業を煮やし、「無視はよくないことです」と叱る。生徒たちは先生に賛同し、彼への攻撃を強める。

翌日から教室内で彼に話しかける生徒は居なくなった。よくないことであるはずの「無視」で、彼自身を教室から排除した。罪を犯した彼がいなくなった理想の世界は今日もせっせと秩序を保ち続ける。

 

ある社会秩序への脅威とみなされた人々に対して表出する激しい感情のことをモラル・パニックと言う。

「彼らは自分たちとは違う、道徳や常識から逸脱した存在だ」という境界線を引くことで、「脅威」を自分たちの道徳秩序から追放し、人々は揺らぎかけた道徳の境界を再定義する。

この感情には、秩序が揺らぐことへの恐怖も含まれるが、それ以上に"純粋な"怒りが多く含まれる。「道徳の番人」である民衆が自身や他人の感情を煽りながら「よそもの」を排除することに勤しむ。「自分たちはこいつらみたいな卑劣なことはしないな」と言いながら、彼らに対して人格否定やもっと直接的な攻撃を施すことが容易に行われる。

ここに危険性がある。モラル・パニックは個人的な怒りの感情が正当性を持つ可能性が極めて高いのである。

個人的な怒りの感情と書いたが、厳密に言えば人々は自分の身に降りかかったことで怒っているわけではない。道徳的規範と照らし合わせながら、自分に利害があるわけではないのに怒ることが出来るのである。だから、個人的な怒りの感情というよりも、当事者、とくに被害者の視点を借りながら怒っているのである。社会正義の名を借りた個人的な怒りなのである。

「人々は自己利益を追求するものである」という人間モデルから考えると、モラル・パニックは極めて不合理な現象だ。"誰かのために"怒っても一銭の得にもならない。

それでも、なぜ人々は怒っているのだろう。

自分とは違う人たち、罪を犯した人たち、不気味な人たちを道徳の共同体の外へと追放する。分断の先にあるのは居心地のいい場所なのだろうか。

「よそもの」を作り出すことは、とても気持ちがいい。彼らが居てくれる限り、自分自身は"正しく"いられる。

憎むべきは倫理的でない行為それ自体であり、このことは人格否定を意味しない。それでも行為よりも人格を否定しやすいのは、考えるべきことが少なくなるからである。

行為自体を批判するには、なぜ人を殺してはいけないのか?なぜ不倫をしてはいけないのか?刑罰のあり方は?報道のあり方は?といった考えるべきことがたくさんある。

それに対して、人一人を追い詰めることは容易である。「なぜその行為がダメなことなのか」という疑問は「その人が悪いから」「性格が悪いから」「そもそもこの人ってなんで人気なのか分かんない」の人格否定にすり替わる。考えるべきことを減らすことができる。

言うまでもないことだが、私は倫理的でない行為を擁護したいわけではない。事実確認と当事者双方の視点に寄り添いながら慎重な判断を行い、然るべき制裁が下されるべきだと思う。けれども、その人に直接顔を合わせる必要がないのをいいことに人格否定を繰り返すことは、制裁とは言わない。正義の名を借りた鬱憤晴らしである。

 

モラル・パニックで揺れた後は、教室や世間では再び"理想"が求められる。この共同体では理想を求め、常に追放するべき人を探し求めている。綺麗に管理されたユートピアが、今日も変わらず動いている。

知人という貨幣

金をよこせよ、と送ってみた。送ったら満足したので、スマホを机に置いてまたパソコンに向かう。

自分の歳が無用にも積み重なっていくにつれて、机の上に平積みにされた年賀状の束が、年々厚みを失っていく。新年を祝うメッセージが電子化していくことに、僕は抵抗を覚えない。だから、年が明けて間もないうちに、鋭利な言葉を、年賀状には書けないような言葉を、送ってやりたくなった。

それは、ただ悪意で固めたような言葉よりも、威力が強いときがある。見知らぬ場所で通り魔に刺されるよりも、自宅の慣れ親しんだ包丁で刺される方が、なんだかドラマティックであるみたいに。

メッセージを送った相手から、「え」という困惑の言葉が返ってきた。相手の顔に卵を投げつけたような困惑さえ手に入れば僕は満足だったから、そのまま何も言わずにメッセージアプリを閉じた。

 

スマホの向こうの相手は、きっと今頃新しい僕を、何食わぬ顔で探しているのだろう。「え」と言ってはいたけど、唯一無二の存在を突然失った重さとは違う、あまりにも軽い反応であることは、声を聞かなくたって分かる。蛍光ペンの一本を無くしたくらいの喪失感なのだろう、と思いながら僕はまた期末試験の勉強に立ち戻る。

 

メッセージの相手はあまり大学の中で見かけない。どこで何をやっているのかは知らない。知ろうとも思わないし、それくらいの距離感が心地いい関係性だった。環境が変わって浮き足立った状況で出会う人たちとは皆、それくらいの距離感を保ったまま奇妙な四年間を過ごしていくのだと、口には出さないけれどそれを当然の前提として過ごしている。

 

そんな日々の中で、年に数回やってくる試験前の時だけ急に距離を詰めてくるのが彼だった。講義に少しだけ現れて、自分が知っている人の存在を確認したら勝利を手にしたも同然。あとは試験前に情報の海の中で"知人"に連絡をすれば、彼は単位を取ることができる。"知人"の中に僕が居るのだろう。

今までは彼の要望に僕は快く応じていた。特に断る理由もなかったからである。レジュメ、講義中に教授がボソッと呟いた試験に関する情報、過去問、ヤマ、オリジナルのノート。僕はバリエーション豊かなラインナップを取り揃えていた。

 

でも、割と人間って他人のことを無料で使おうとしてくる。インクが切れかけの蛍光ペンよりも薄い人間関係だけを対価にして、関係が繋がっているだけのことが何かの利益であるかのような顔で。

コネと人脈はお金に変えられない。けれども貨幣と同じような使い方をしてくることがある。

それだけではない。誰かのプライベートな情報をコミュニケーションの切り札にする人もいる。かけがえのない思い出や二人だけの秘密を容易に市場に売り渡す人もいる。

 

「人を手段として用いてはいけない」は、現実的ではない理想の言葉だ。生活していく以上、私たちは他人を利用することを免れない。コンビニの店員、電車の運転手、旅行代理店の人。

だから、彼らにはお金という対価を支払う。彼らの労力を費やしてもらった分、お金という形で返す。

そのルールを知っていながら、知人相手になると途端にタダ働きを要求してくる。きっと、情というクーポンを駆使して渡り歩いていくのだろう。

この習慣を繰り返していると、やがてその人のパーソナルゾーンにずけずけと侵入することもタダで要求しようとしてくる。情と性愛が繋がりやすいのをいいことに、相手の感情を管理して踏みにじる。

 

そういう人には、ちょっとだけ不幸になってもらいたいなと思う。でもきっと、彼らは自分の貧しさに気づかないまま、途切れることのないクーポンを使い続けていくのだろう。

高台からの強い言葉

人は、基本的に自分の経験から語ることしかできない。

そしてその経験が、自分が立っている足場が、どれくらい高いところにあるかを自覚することはとても難しい。

高いところにいると、自分の経験からこしらえた方程式を押し通しやすい。そのこと自体は誰しもがやってしまうことだ。自分が持っている価値尺度を使ったほうが、多くのことを考えなくて済むし、余計な労力を割かなくて良い。人は意図的に認知的倹約家になるということは社会心理学上で何回も言われていることだ。

怖いのは、こうした認知的な倹約の結果として生まれた即席のレンズが、大きな覇権を持つことである。誰かのある特定の物の見方が、絶対的な"善"となって社会に流通してしまったら、人は人工的な近視眼を手に入れてしまう。

他人の眼鏡やコンタクトレンズをかけても度が上手く合わないのと同じように、その人の物の見方はその人だけのものであって、他の人には上手く当てはまらないのが普通である。普通であるはずなのに、人はたまに意図的にピントの合わないレンズでその場をやり過ごそうとする。それは、見たくないものを見ないままでいられるからである。

絶対的に恵まれている人は一定の割合で存在する。そういった人の足場は高台になっていて、周りを見渡しても同じくらい高いところにいる人はそんなにいなくて、だから自然と周りの人と接するときは足元を見ながら話すことになる。

「やっぱり世界は広いなと感じますね。自分のいた世界の狭さを知りました。価値観の違う人と出会ってみると、もう世界が180度変わって見えますから」

"自分のいた世界の狭さ"を自覚することはできても、その狭さに気付いたという言葉を、"自分のいた世界"に向かって上から投げかけることについては、あまり自覚的になれないようだ。

世界が広いということが事実だとしても、自分のいた世界が狭いと断言できるほど、自分のいた世界のすべてを見通した自信はあるのだろうか。自分が根差している世界は、頑張って見つけた広い世界と同じくらい複雑なつくりをしていることに、どれだけ自覚的になれたのだろうか。

高台の頂点に登り詰められることは、すごい。自分ではどうすることもできない環境要因に加えて、自身の弛まぬ努力の先に見えてくるものだ。運と努力する才能を持ち合わせたほんの一握りの人間だけが見られる世界がある。

ただ、そういった上を上を目指すような、上向きのベクトルにまつわる合理性だけでは、構成されていない世界がたくさんある。このような世界の複雑さに目を向けられることが、謙虚さを意味するのではないかと思う。謙虚さはこういった絶対的な"権力"の差に気付けるかにかかっている。

自分と同じ高さにいる人と一緒に横ばかり見ていたら、差し出す言葉は皆、高台からの暴力的な言葉になる。「毎朝満員電車に揺られて人生終わっていいんですか、私は…」「今の時代は海外を視野に入れないと…」「安定した選択を繰り返していいんですか…」

こういった言葉はたぶん、満員電車で揺られている人で支えられている世界を見ないままなのだから言えるし、高齢の親や身体が不自由な家族が一人日本に残されることへの懸念がないのだから言えるし、安定した選択を取らざるを得ない事態がたまたま自分の身に降りかかっていないから言えるのだ。

特別でいられたのはすごい。自分が立っている高台を立派に見せられてすごい。"人と違う"というオーダーメイドのペンキでその高台を塗りたくってキラキラにできた。そのペンキは誰が買ったものなのか。全部一から自分で手に入れられたのならすごい。でも、多くは自分一人の力じゃない。自分一人で手に入れたと思えるのは幸福だ。近視眼的な幸福だ。

嫉妬だと言われるだろうか。行動もしないで口先だけ達者なのだと言われるだろうか。そう思われてもいい。思われてもいいけどただ、高台に登り詰めた人がすることは、他人をカテゴリー化して語ることではないということは断言できる。

かくいう私だって、こうやって文章を書ける時間的な余裕を与えられていることは、とても恵まれたことだと感じる。沢山の人に出会えて、いろんなことを考えられるのも、安定した環境が与えられているからだ。だから私も、"高台に登り詰めた人"を一緒くたにカテゴリー化することはしたくない。こういったカテゴリー化の精神は、私が危惧しているものと、本質として一緒になってしまう。

だから、「高台に登り詰めた人にこういうことはしないでほしい」という、"個別的な"訴えを唱え続けることにする。

高台の下、見たくない世界にだって、人はしっかり生きている。

 

沢山のことを考えた一年だった。いろんなことが起きて喜んだり傷つき続けたりした一年だった。

2020年はどんな年になるだろうか。高台を掘り崩したいわけではない。一人一人が自分に合ったレンズで、世界を見渡せれば良いなと思う。

書くことは呼吸、だけど聞くことも呼吸

何か嫌なことがあったときに自分の気持ちをありのままに書いてみると、スッと気持ちが落ち着くときがある。

言語化」による癒しの効果というのは絶大で、今まで自分が抱いていた気持ちがスルスルと言葉に変わっていくとき、ドンピシャの味のミックスジュースを飲んだ時のように、胸が踊る気持ちがする。自分の思想を混ぜこぜして美味しいものができた!喜びが抑えられない。こうして呼吸をするようにツイートをすることで心の安寧を得られる。

書くことは呼吸。だから、言いたいことも言えないのはすごく息苦しい。溜まり溜まった自意識はどこかで解放してあげないと、熱暴走を起こしてしまいそう。だからこそ、書くことは大事だ。絶対に必要なんだ。

 

でも、どこかに何かを書いた以上、それは聞かれることを逃れられない。

いま、「読む」ではなく「聞く」という言葉を使ったのには理由がある。情報過多の現代は、溢れかえっている言説を読み解くことよりも、なんとなく聞き流すことの方が圧倒的に多いように感じるからだ。そして、出所不明の情報が、伝聞という体で広まっていく。その意味でも、原本を「読む」というよりも、どこかの誰かの話を「聞く」と表現した方が適切であるように思う。

 

聞き流しが多いことは何を意味するか。私は、聞き流していることに息苦しさが宿ると感じている。

例えば、図書館にいて集中しているときにずっと喋っている人がいたら、居心地の悪い気持ちがするだろう。そんなとき、人は耳を塞ぐか、場所を変えるしかなくなる。現状、構造的に聞き手の方が圧倒的不利なのである。

この「聞き手」の不断なる努力によって成り立っている世界がたくさんあることに、もっと自覚的になってもいい局面だと思う。

 

みんながみんな自分の言葉を「読む」わけではない、ということを忘れてしまいそうになる。断片的な文をリリースし続けることによる緩やかな怠慢については既に書いたことがある(正しさがガラクタになるとき - ノートの端っこ、ひこうき雲)が、情報の海から必要なものを選択していかなければならないとき、大多数の情報はノイズとして切り捨てられることになる。

そんな「情報の仕分け作業」の際に問われるのは、非常に表面的な点にとどまる。そんなときに絶大な影響力を発揮するのが、言葉の使い方なのだと思う。

 

今まで私が書いてきた真面目なエッセイはすべて「言葉の使い方」について言及し続けたといっても過言ではない。

言いたいことがあるのは分かる。書きたいことがあるのは分かる。だって書くことは呼吸だから。

でも、その言いたいことって何かを否定しないと言えないことなのか。何かと比べて何かを貶めないと言えないことなのか。もちろん比較することが論理的妥当性を高めることもあるだろう。でもその比較された側について考えたことはあったか。

そんなに大きな主語で書いて良かったのか。限定された主語で書いているけど、それって別に皆に当てはまることじゃないのか。

難しい言葉や短い言葉や強い言葉が取りこぼしているものはないか。そもそも何かを伝えたくて書いているのか。それは本当に皆に向かって言う必要があることなのか。

 

聞く方だって呼吸していることを忘れてはいけない。画面の向こうで呼吸をしている。生きている。自分の人生を精一杯生きている。書き手だけが生きているわけでは断じてない。

 

聞き手のことを考えていない言葉なんて、何の価値もないノイズだ。

 

こんなに色々考えなきゃいけないなんてめんどくさい?そうです。本来言葉っていうのはそれくらい面倒なものなのだ。毒にも薬にも、なる。自分だけベラベラ喋っておいて、聞き手に対してだけいろんなことを要求しすぎじゃないのか。あなた自身の物語の中の役を勝手に押し付けてはいけない。聞き手は、自分の物語の中で精一杯に生きている。

 

 

強い言葉で色々と述べてきたが、私だって言葉を司る神などではない。言葉をずさんに扱ってしまったことなんて、たくさんある。だから、この文章は自分への戒めも込めている。

 

私の周りには、本当に真摯で誠実な聞き手の方々がいる。私が書いてきたことに対して向き合って聞いてくれる人に、何度救われてきたか分からない。世界を支えてきた聞き手の方々に対しての敬意を、忘れたくなんかない。

聞き手たちが自分の耳を塞ぐことなく、たまには書き手の側に回ることもありながら、今日ものびのびと呼吸できていることを、願ってやまない。

 

 

追記(2020.4.23)

 

この文章を書いた2019年末から、社会の状況は一変した。

社会全体が張り詰めている現状は、「呼吸としての言葉」について再考するきっかけであると感じる。

今、きっと、先が見えない暗闇の中に立たされていて、呼吸が荒くなってしまっている。正解が分からない中で、社会を動かしているたくさんの人がいる。攻撃されている大きな主語の中で一人一人が生きている。

 

もう一度、言葉について考えたい。

日々、情報と言葉が溢れ返っている。たくさんの言葉に触れることは精神的な体力を使うことで、なんでもないような言葉の中の小さなトゲが、変わらない日々の中でずっと胸の中で刺さり続けることもある。

 

皆が頑張って、そして傷ついている。その一人にあなたがいる。あなたにだって傷つく権利がある。一人一人に傷がある。世界にがん患者が沢山いることは、がん患者一人一人を軽視する理由にはならない。同じように、傷ついた人が沢山いることは、あなたの傷を軽んじる理由にはならない。

だから、今出来ることは、自分の傷と似たような傷を、画面の向こうにいる相手も抱えているのではないかと想像することだ。

 

息苦しい社会の中でも、書くことで呼吸をしよう。そして、書くことで相手の呼吸を塞ぐことがないように、立ち止まって想像しよう。

 

事態が収束し、日常が一刻も早く帰ってくることを願っています。

健やかな論理

「こういうことがあった辛くてたまらないもう死にたい死にたい死にたいって助走があるわけじゃなくて、ふと、なんか、別にもういっか、ってなる瞬間。」

 

先月発売された朝井リョウの最新作、『どうしても生きてる』という短編集の中の「健やかな論理」という短編が印象に残ったので、あらすじとともに紹介したい。

 

 主人公佑季子は普通の会社に勤めている三十代後半の女性で、離婚歴があるが、現在は恭平という彼氏がいる。会社での仕事はルーティンワークに尽き、特に心を削ってくるような仕事も上司もいない。きわめて平凡な生活を送っている。「適度に働いて、税金も納めて、そのまま日々を過ごし続けたい。それがひどく怠惰なこととして数えられるようになったのはいつからだろう」という語りにも、佑季子の生活の様子が見える。

 

 とてもありふれた人が主人公の話であるが、それでも強く印象に残ったのは、佑季子の周りの出来事に対する捉え方に、心当たりが私にもあったからである。この短編のタイトルである「健やかな論理」という言葉が短編中には何度も登場し、この言葉がとてもしっくり来たのである。以下、「健やかな論理」という言葉が登場する場面を箇条書き的に紹介する。

 

 彼氏の恭平と一緒にミステリーもののテレビドラマを見ている時に、恭平は劇中の被害者に対し、「Amazonかなんかの再配達を頼んでるからこの人は自殺をしているわけがない」という推理を展開する。

 佑季子の母と二人で話している時に、佑季子の弟である孝浩の娘などの家族の話をするのを母がためらう。離婚している佑季子に気を使っているのだ。だが、佑季子に彼氏がいることが分かると、安心したようにまた弟の家族の話をし始める。

 会社に対するクレーマーへの愚痴を言う佑季子の同僚が、「どんだけ満たされてなかったらこういうことしちゃうんだろ」と言う。

 

 これらの出来事に対しての佑季子の語りが印象的だった。

 

 ○○だから××、という健やかな論理は、その健やかさを保ったまま、やがて、鮮やかに反転する。「満たされていないから他人を攻撃する」……はやがて、「満たされている自分は、他人を攻撃しない側の人間だ」……に反転する。おかしいのはあの人で、正しいのは自分。私たちはいつだって、そんな分断を横たえたい。健やかな論理に則って、安心したいし納得したい。だけどそれは、自分と他者を分け隔てる高く厚い壁を生み出す、一つ目の煉瓦にもなり得る。再配達を頼んだのだから、自殺なんてしない。……新しい恋人ができたら、もう大丈夫。……そんな方程式に、安住してはならない。自分と他者に、幸福と不幸に、生と死に、明確な境目などない。(pp.34-35)

 

 短編の後半では、平凡に見えていた佑季子の「心の闇」とでも言えるような「趣味」が明らかになる。自殺の報道をニュースサイトで見ると、その自殺者のSNSアカウントを特定したうえで、その人の最期の投稿を、そのニュースサイトとともに保存しておく。きわめて日常的な「最期の投稿」を見ることで、「健やかな論理」から外れたものを見ることで、佑季子は安心感を得るのだ。なにかとてつもなく辛いことがあったわけでなくても、人は突然人生をぶった切ることができる。「死にたい」と思わなくても「なんか、別にもういっか、ってなる瞬間」だけで、人は死を選びうる。人の生はそれくらい不安定なものであるということを、佑季子は自覚している。

 

 私が驚いたのは、佑季子と同じようなことを私もしているからである。流石に自殺者の特定はしないけれど、有名人の急逝の報道に触れると、その人のツイッターアカウントの最期の投稿を必ず見ている。なぜ私がこのようなことをしているのか今まで分からなかったけど、朝井リョウが上手く言語化してくれたような気がする。

 

 今日生きている私たちはたまたま「死ななかった」のを繰り返しているだけにすぎないのに、そのことに無自覚でいてはならない、という気持ちが私の中にもあるのである。「こんなことがあったから、死んでしまったんだろうな」と思ってしまえるのは簡単だし、自分も生と死の境の曖昧なところに立っているのだということから目を背けていられる。私が思慮深いとかそういうことを言いたいのではなく、このような「曖昧さ」を忘れてはいけない、という自覚が常に私の中にはある。


 そしてまた、「健やかな論理」を危惧する気持ちがあるから、私は少年非行というテーマに関心があるのかもしれないと思った。「家庭環境が悪かったから、交友関係がよくなかったから、暴力的なゲームをやっていたから、こんな犯罪をしてしまった」と納得するのは簡単で、このような「健やかな動機」を手に入れることが出来た人々は、「少年A」との間に境界線を引いて安心することが出来る。「満たされている自分はこんな凶行には至らない」という論理に「反転」するのだ。しかし、「少年A」の側から捉えてみれば、きっとそのような論理は通用しない。中身はもっとごちゃごちゃで目を逸らしたくなるものだと思う。このような問題意識から、少年非行の研究をしたいと思ったのだ。

 

 朝井リョウは、人々が見ないでおこうとし続けた現代社会の人間の中の闇を容赦なく暴いていくことに定評がある作家である。読んでいてかなり胸がえぐられることが多い。今回もその容赦なさに圧倒されたわけだが、今までで一番共感も覚えるものだった。しんどいけれど目が離せない読書体験だった。

 

 今回の短編はかなり暗い話である。終盤では佑季子は「ふっと」電車が来る線路に飛び込みそうになる様子が描かれている。だが、彼氏の恭平から来た晩酌の誘いのメールで、佑季子は強烈に「会いたい」と思い直す。いつでも少しだけ死にたくなるのと同じように、少しだけ生きたい自分もいる。この終わり方には少しだけ救いがある。

 

 毎日はすごく曖昧に過ぎていく。それでも周りの人とのふとした出来事がきっかけで、どうしようもなく生きていたくなる自分もいる。「どうしても生きてる」のである。

ソーダ水槽と秋の夜

どしゃ降りの雨に打たれているとき、すごくちっぽけな世界が、途方もないくらい大きな世界に繋がっていることに、気がつくことがある。

 

守り抜いてきた小さな自分の世界が不意に壊され、耳をつんざくような雷鳴と身を凍えさすような寒風が、自分の心の隙間をこじ開けてくるようなときがある。

 

小さなたいせつな世界が大きな世界に飲み込まれそうなとき、「きっと自分は少数派なんだろう」そう思ったとき、なんだか、世界のどこにも自分の味方はいないような気がしてくる。そんな秋の夜にたくさんの言葉をくれた人に、少しでも何かを返したい。

 

何かをがんばっている人、疲れた人、自分が今やっていることが何に繋がっているのか分からなくなっている人、きっと人によって夜は違う。明けない夜もあるのかもしれない。

 

恐れ多いけど、たいせつな人のいろいろな葛藤を見てきて、がんばるあなたを見てきたから、わたしがなにか力になれれば、と思っている。

もう十分に大きい空のことを知って、新しい朝に怯えて、社会はそんなに優しくないって知ってしまった。自分が立っている地面に生えている数多の墓標から目を背けられなくなった。

 

特別じゃなくていい。ならなくていい。あなたのまま、普通のままでいることがどれだけみんなの力になっているか、何度でも伝えていきたい。

 

あのときくれた大切な言葉を抱いて今日も眠る。ありがとう、あたたかくしていますように。