ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

高台からの強い言葉

人は、基本的に自分の経験から語ることしかできない。

そしてその経験が、自分が立っている足場が、どれくらい高いところにあるかを自覚することはとても難しい。

高いところにいると、自分の経験からこしらえた方程式を押し通しやすい。そのこと自体は誰しもがやってしまうことだ。自分が持っている価値尺度を使ったほうが、多くのことを考えなくて済むし、余計な労力を割かなくて良い。人は意図的に認知的倹約家になるということは社会心理学上で何回も言われていることだ。

怖いのは、こうした認知的な倹約の結果として生まれた即席のレンズが、大きな覇権を持つことである。誰かのある特定の物の見方が、絶対的な"善"となって社会に流通してしまったら、人は人工的な近視眼を手に入れてしまう。

他人の眼鏡やコンタクトレンズをかけても度が上手く合わないのと同じように、その人の物の見方はその人だけのものであって、他の人には上手く当てはまらないのが普通である。普通であるはずなのに、人はたまに意図的にピントの合わないレンズでその場をやり過ごそうとする。それは、見たくないものを見ないままでいられるからである。

絶対的に恵まれている人は一定の割合で存在する。そういった人の足場は高台になっていて、周りを見渡しても同じくらい高いところにいる人はそんなにいなくて、だから自然と周りの人と接するときは足元を見ながら話すことになる。

「やっぱり世界は広いなと感じますね。自分のいた世界の狭さを知りました。価値観の違う人と出会ってみると、もう世界が180度変わって見えますから」

"自分のいた世界の狭さ"を自覚することはできても、その狭さに気付いたという言葉を、"自分のいた世界"に向かって上から投げかけることについては、あまり自覚的になれないようだ。

世界が広いということが事実だとしても、自分のいた世界が狭いと断言できるほど、自分のいた世界のすべてを見通した自信はあるのだろうか。自分が根差している世界は、頑張って見つけた広い世界と同じくらい複雑なつくりをしていることに、どれだけ自覚的になれたのだろうか。

高台の頂点に登り詰められることは、すごい。自分ではどうすることもできない環境要因に加えて、自身の弛まぬ努力の先に見えてくるものだ。運と努力する才能を持ち合わせたほんの一握りの人間だけが見られる世界がある。

ただ、そういった上を上を目指すような、上向きのベクトルにまつわる合理性だけでは、構成されていない世界がたくさんある。このような世界の複雑さに目を向けられることが、謙虚さを意味するのではないかと思う。謙虚さはこういった絶対的な"権力"の差に気付けるかにかかっている。

自分と同じ高さにいる人と一緒に横ばかり見ていたら、差し出す言葉は皆、高台からの暴力的な言葉になる。「毎朝満員電車に揺られて人生終わっていいんですか、私は…」「今の時代は海外を視野に入れないと…」「安定した選択を繰り返していいんですか…」

こういった言葉はたぶん、満員電車で揺られている人で支えられている世界を見ないままなのだから言えるし、高齢の親や身体が不自由な家族が一人日本に残されることへの懸念がないのだから言えるし、安定した選択を取らざるを得ない事態がたまたま自分の身に降りかかっていないから言えるのだ。

特別でいられたのはすごい。自分が立っている高台を立派に見せられてすごい。"人と違う"というオーダーメイドのペンキでその高台を塗りたくってキラキラにできた。そのペンキは誰が買ったものなのか。全部一から自分で手に入れられたのならすごい。でも、多くは自分一人の力じゃない。自分一人で手に入れたと思えるのは幸福だ。近視眼的な幸福だ。

嫉妬だと言われるだろうか。行動もしないで口先だけ達者なのだと言われるだろうか。そう思われてもいい。思われてもいいけどただ、高台に登り詰めた人がすることは、他人をカテゴリー化して語ることではないということは断言できる。

かくいう私だって、こうやって文章を書ける時間的な余裕を与えられていることは、とても恵まれたことだと感じる。沢山の人に出会えて、いろんなことを考えられるのも、安定した環境が与えられているからだ。だから私も、"高台に登り詰めた人"を一緒くたにカテゴリー化することはしたくない。こういったカテゴリー化の精神は、私が危惧しているものと、本質として一緒になってしまう。

だから、「高台に登り詰めた人にこういうことはしないでほしい」という、"個別的な"訴えを唱え続けることにする。

高台の下、見たくない世界にだって、人はしっかり生きている。

 

沢山のことを考えた一年だった。いろんなことが起きて喜んだり傷つき続けたりした一年だった。

2020年はどんな年になるだろうか。高台を掘り崩したいわけではない。一人一人が自分に合ったレンズで、世界を見渡せれば良いなと思う。

書くことは呼吸、だけど聞くことも呼吸

何か嫌なことがあったときに自分の気持ちをありのままに書いてみると、スッと気持ちが落ち着くときがある。

言語化」による癒しの効果というのは絶大で、今まで自分が抱いていた気持ちがスルスルと言葉に変わっていくとき、ドンピシャの味のミックスジュースを飲んだ時のように、胸が踊る気持ちがする。自分の思想を混ぜこぜして美味しいものができた!喜びが抑えられない。こうして呼吸をするようにツイートをすることで心の安寧を得られる。

書くことは呼吸。だから、言いたいことも言えないのはすごく息苦しい。溜まり溜まった自意識はどこかで解放してあげないと、熱暴走を起こしてしまいそう。だからこそ、書くことは大事だ。絶対に必要なんだ。

 

でも、どこかに何かを書いた以上、それは聞かれることを逃れられない。

いま、「読む」ではなく「聞く」という言葉を使ったのには理由がある。情報過多の現代は、溢れかえっている言説を読み解くことよりも、なんとなく聞き流すことの方が圧倒的に多いように感じるからだ。そして、出所不明の情報が、伝聞という体で広まっていく。その意味でも、原本を「読む」というよりも、どこかの誰かの話を「聞く」と表現した方が適切であるように思う。

 

聞き流しが多いことは何を意味するか。私は、聞き流していることに息苦しさが宿ると感じている。

例えば、図書館にいて集中しているときにずっと喋っている人がいたら、居心地の悪い気持ちがするだろう。そんなとき、人は耳を塞ぐか、場所を変えるしかなくなる。現状、構造的に聞き手の方が圧倒的不利なのである。

この「聞き手」の不断なる努力によって成り立っている世界がたくさんあることに、もっと自覚的になってもいい局面だと思う。

 

みんながみんな自分の言葉を「読む」わけではない、ということを忘れてしまいそうになる。断片的な文をリリースし続けることによる緩やかな怠慢については既に書いたことがある(正しさがガラクタになるとき - ノートの端っこ、ひこうき雲)が、情報の海から必要なものを選択していかなければならないとき、大多数の情報はノイズとして切り捨てられることになる。

そんな「情報の仕分け作業」の際に問われるのは、非常に表面的な点にとどまる。そんなときに絶大な影響力を発揮するのが、言葉の使い方なのだと思う。

 

今まで私が書いてきた真面目なエッセイはすべて「言葉の使い方」について言及し続けたといっても過言ではない。

言いたいことがあるのは分かる。書きたいことがあるのは分かる。だって書くことは呼吸だから。

でも、その言いたいことって何かを否定しないと言えないことなのか。何かと比べて何かを貶めないと言えないことなのか。もちろん比較することが論理的妥当性を高めることもあるだろう。でもその比較された側について考えたことはあったか。

そんなに大きな主語で書いて良かったのか。限定された主語で書いているけど、それって別に皆に当てはまることじゃないのか。

難しい言葉や短い言葉や強い言葉が取りこぼしているものはないか。そもそも何かを伝えたくて書いているのか。それは本当に皆に向かって言う必要があることなのか。

 

聞く方だって呼吸していることを忘れてはいけない。画面の向こうで呼吸をしている。生きている。自分の人生を精一杯生きている。書き手だけが生きているわけでは断じてない。

 

聞き手のことを考えていない言葉なんて、何の価値もないノイズだ。

 

こんなに色々考えなきゃいけないなんてめんどくさい?そうです。本来言葉っていうのはそれくらい面倒なものなのだ。毒にも薬にも、なる。自分だけベラベラ喋っておいて、聞き手に対してだけいろんなことを要求しすぎじゃないのか。あなた自身の物語の中の役を勝手に押し付けてはいけない。聞き手は、自分の物語の中で精一杯に生きている。

 

 

強い言葉で色々と述べてきたが、私だって言葉を司る神などではない。言葉をずさんに扱ってしまったことなんて、たくさんある。だから、この文章は自分への戒めも込めている。

 

私の周りには、本当に真摯で誠実な聞き手の方々がいる。私が書いてきたことに対して向き合って聞いてくれる人に、何度救われてきたか分からない。世界を支えてきた聞き手の方々に対しての敬意を、忘れたくなんかない。

聞き手たちが自分の耳を塞ぐことなく、たまには書き手の側に回ることもありながら、今日ものびのびと呼吸できていることを、願ってやまない。

 

 

追記(2020.4.23)

 

この文章を書いた2019年末から、社会の状況は一変した。

社会全体が張り詰めている現状は、「呼吸としての言葉」について再考するきっかけであると感じる。

今、きっと、先が見えない暗闇の中に立たされていて、呼吸が荒くなってしまっている。正解が分からない中で、社会を動かしているたくさんの人がいる。攻撃されている大きな主語の中で一人一人が生きている。

 

もう一度、言葉について考えたい。

日々、情報と言葉が溢れ返っている。たくさんの言葉に触れることは精神的な体力を使うことで、なんでもないような言葉の中の小さなトゲが、変わらない日々の中でずっと胸の中で刺さり続けることもある。

 

皆が頑張って、そして傷ついている。その一人にあなたがいる。あなたにだって傷つく権利がある。一人一人に傷がある。世界にがん患者が沢山いることは、がん患者一人一人を軽視する理由にはならない。同じように、傷ついた人が沢山いることは、あなたの傷を軽んじる理由にはならない。

だから、今出来ることは、自分の傷と似たような傷を、画面の向こうにいる相手も抱えているのではないかと想像することだ。

 

息苦しい社会の中でも、書くことで呼吸をしよう。そして、書くことで相手の呼吸を塞ぐことがないように、立ち止まって想像しよう。

 

事態が収束し、日常が一刻も早く帰ってくることを願っています。

健やかな論理

「こういうことがあった辛くてたまらないもう死にたい死にたい死にたいって助走があるわけじゃなくて、ふと、なんか、別にもういっか、ってなる瞬間。」

 

先月発売された朝井リョウの最新作、『どうしても生きてる』という短編集の中の「健やかな論理」という短編が印象に残ったので、あらすじとともに紹介したい。

 

 主人公佑季子は普通の会社に勤めている三十代後半の女性で、離婚歴があるが、現在は恭平という彼氏がいる。会社での仕事はルーティンワークに尽き、特に心を削ってくるような仕事も上司もいない。きわめて平凡な生活を送っている。「適度に働いて、税金も納めて、そのまま日々を過ごし続けたい。それがひどく怠惰なこととして数えられるようになったのはいつからだろう」という語りにも、佑季子の生活の様子が見える。

 

 とてもありふれた人が主人公の話であるが、それでも強く印象に残ったのは、佑季子の周りの出来事に対する捉え方に、心当たりが私にもあったからである。この短編のタイトルである「健やかな論理」という言葉が短編中には何度も登場し、この言葉がとてもしっくり来たのである。以下、「健やかな論理」という言葉が登場する場面を箇条書き的に紹介する。

 

 彼氏の恭平と一緒にミステリーもののテレビドラマを見ている時に、恭平は劇中の被害者に対し、「Amazonかなんかの再配達を頼んでるからこの人は自殺をしているわけがない」という推理を展開する。

 佑季子の母と二人で話している時に、佑季子の弟である孝浩の娘などの家族の話をするのを母がためらう。離婚している佑季子に気を使っているのだ。だが、佑季子に彼氏がいることが分かると、安心したようにまた弟の家族の話をし始める。

 会社に対するクレーマーへの愚痴を言う佑季子の同僚が、「どんだけ満たされてなかったらこういうことしちゃうんだろ」と言う。

 

 これらの出来事に対しての佑季子の語りが印象的だった。

 

 ○○だから××、という健やかな論理は、その健やかさを保ったまま、やがて、鮮やかに反転する。「満たされていないから他人を攻撃する」……はやがて、「満たされている自分は、他人を攻撃しない側の人間だ」……に反転する。おかしいのはあの人で、正しいのは自分。私たちはいつだって、そんな分断を横たえたい。健やかな論理に則って、安心したいし納得したい。だけどそれは、自分と他者を分け隔てる高く厚い壁を生み出す、一つ目の煉瓦にもなり得る。再配達を頼んだのだから、自殺なんてしない。……新しい恋人ができたら、もう大丈夫。……そんな方程式に、安住してはならない。自分と他者に、幸福と不幸に、生と死に、明確な境目などない。(pp.34-35)

 

 短編の後半では、平凡に見えていた佑季子の「心の闇」とでも言えるような「趣味」が明らかになる。自殺の報道をニュースサイトで見ると、その自殺者のSNSアカウントを特定したうえで、その人の最期の投稿を、そのニュースサイトとともに保存しておく。きわめて日常的な「最期の投稿」を見ることで、「健やかな論理」から外れたものを見ることで、佑季子は安心感を得るのだ。なにかとてつもなく辛いことがあったわけでなくても、人は突然人生をぶった切ることができる。「死にたい」と思わなくても「なんか、別にもういっか、ってなる瞬間」だけで、人は死を選びうる。人の生はそれくらい不安定なものであるということを、佑季子は自覚している。

 

 私が驚いたのは、佑季子と同じようなことを私もしているからである。流石に自殺者の特定はしないけれど、有名人の急逝の報道に触れると、その人のツイッターアカウントの最期の投稿を必ず見ている。なぜ私がこのようなことをしているのか今まで分からなかったけど、朝井リョウが上手く言語化してくれたような気がする。

 

 今日生きている私たちはたまたま「死ななかった」のを繰り返しているだけにすぎないのに、そのことに無自覚でいてはならない、という気持ちが私の中にもあるのである。「こんなことがあったから、死んでしまったんだろうな」と思ってしまえるのは簡単だし、自分も生と死の境の曖昧なところに立っているのだということから目を背けていられる。私が思慮深いとかそういうことを言いたいのではなく、このような「曖昧さ」を忘れてはいけない、という自覚が常に私の中にはある。


 そしてまた、「健やかな論理」を危惧する気持ちがあるから、私は少年非行というテーマに関心があるのかもしれないと思った。「家庭環境が悪かったから、交友関係がよくなかったから、暴力的なゲームをやっていたから、こんな犯罪をしてしまった」と納得するのは簡単で、このような「健やかな動機」を手に入れることが出来た人々は、「少年A」との間に境界線を引いて安心することが出来る。「満たされている自分はこんな凶行には至らない」という論理に「反転」するのだ。しかし、「少年A」の側から捉えてみれば、きっとそのような論理は通用しない。中身はもっとごちゃごちゃで目を逸らしたくなるものだと思う。このような問題意識から、少年非行の研究をしたいと思ったのだ。

 

 朝井リョウは、人々が見ないでおこうとし続けた現代社会の人間の中の闇を容赦なく暴いていくことに定評がある作家である。読んでいてかなり胸がえぐられることが多い。今回もその容赦なさに圧倒されたわけだが、今までで一番共感も覚えるものだった。しんどいけれど目が離せない読書体験だった。

 

 今回の短編はかなり暗い話である。終盤では佑季子は「ふっと」電車が来る線路に飛び込みそうになる様子が描かれている。だが、彼氏の恭平から来た晩酌の誘いのメールで、佑季子は強烈に「会いたい」と思い直す。いつでも少しだけ死にたくなるのと同じように、少しだけ生きたい自分もいる。この終わり方には少しだけ救いがある。

 

 毎日はすごく曖昧に過ぎていく。それでも周りの人とのふとした出来事がきっかけで、どうしようもなく生きていたくなる自分もいる。「どうしても生きてる」のである。

ソーダ水槽と秋の夜

どしゃ降りの雨に打たれているとき、すごくちっぽけな世界が、途方もないくらい大きな世界に繋がっていることに、気がつくことがある。

 

守り抜いてきた小さな自分の世界が不意に壊され、耳をつんざくような雷鳴と身を凍えさすような寒風が、自分の心の隙間をこじ開けてくるようなときがある。

 

小さなたいせつな世界が大きな世界に飲み込まれそうなとき、「きっと自分は少数派なんだろう」そう思ったとき、なんだか、世界のどこにも自分の味方はいないような気がしてくる。そんな秋の夜にたくさんの言葉をくれた人に、少しでも何かを返したい。

 

何かをがんばっている人、疲れた人、自分が今やっていることが何に繋がっているのか分からなくなっている人、きっと人によって夜は違う。明けない夜もあるのかもしれない。

 

恐れ多いけど、たいせつな人のいろいろな葛藤を見てきて、がんばるあなたを見てきたから、わたしがなにか力になれれば、と思っている。

もう十分に大きい空のことを知って、新しい朝に怯えて、社会はそんなに優しくないって知ってしまった。自分が立っている地面に生えている数多の墓標から目を背けられなくなった。

 

特別じゃなくていい。ならなくていい。あなたのまま、普通のままでいることがどれだけみんなの力になっているか、何度でも伝えていきたい。

 

あのときくれた大切な言葉を抱いて今日も眠る。ありがとう、あたたかくしていますように。

僕もコーヒーが飲めたい

コーヒーが飲めるってズルいよな。なんでってなんかカッコいいじゃないですか。

例えばカフェに入って優雅に読書をするというわけのわからないことを僕も年に3,4回するわけだけど、そこでコーヒー頼んでみるのね。だけど本当に飲めねえんだわ。コーヒー好きな人には悪いんだけど、よっ友同士の関係の希薄さをお湯にぶち込んでその上澄みだけ取りましたみたいな味がするわけ。つまり無。ドーナツの穴よりも空虚な世界がそこには広がる。

 

ズルいよな。僕はカルピスが飲みたいのに置いてねえんだよカフェにカルピスは。僕はカルピスが好きです。だからレジ前でいつも硬直しちまうわけ。ああいうとこで働いている人ってなんであんなに優しい眼差しを向けてくるんですかね。ほんとうにすごい。

銅像と化した成人男性を優しく見つめる店員さんと対峙すると、自意識も容易に瓦解し始めるの。羞恥心に襲われるわけさ。レジの前で「カルピス」って裏声で言えるくらいのユーモアはないし。だから結局一番安いコーヒーを頼む。

 

僕にも小学生という時代が実はあったんだけど、小学生の頃に初めてコーヒー飲んだ時に「あっこれ今飲んじゃあかんやつ」ってなんとなく悟った。なんとなく、オトナの味っていうか。大人になってしまえば飲めるようになるだろうって10年後の僕に託したわけ。

だけど歳を無駄に重ねていく一方で、未だに僕はカルピスが一番好きだし、コーヒーは一向に飲めるようにならない。

 

そして気づく。あの頃は大人に見えていた大学生も実際は大人の皮を被った子どもだったということに。あまりにも真理だね。結局思春期あたりに好きだった漫画やアニメや音楽って今でもずっと好きじゃないですか。

好きになれないのはあの時代ノートに書き殴った数多のポエムくらいだよ。今度見せてあげようか。今と大して変わんないけど、尖ってて最高だよ。みんなも見せてよ。

 

それはともかく、大学生ってなんか急に大人みたいなことするじゃないですか。いや3年前は制服着てスキップしてたじゃないですかみたいな人が急にあらゆる街のカフェだったりバーだったりパンケーキがおいしいお店だったりそういうものに精通してたり、ビリヤードやダーツに興じたりするじゃないですか。なんですか?いつの間に「大人」をインストールしたんですか?

 

そんでもっておびただしい数のハッシュタグを付けて拡散する。で、そのハッシュタグ一つ取ってみると「朝からcafé」とか書いてあるわけ。ただの来店時間の報告なのにどうしてこうも洒落て見える?魔法か?

朝からカフェに行ったということそれ自体がブランドみたいになっているわけ。ただ朝からカフェに行ってるだけなのに。なんだ?俺も朝から納豆食べたら「朝から納豆」ってストーリーに投稿すればいいのか?

 

いわば、大人さの殴り合いだ。奴らは本気だ。本気で自分の人生をブランディングしている。

 

「大人」とは、自分の世界を築き、時に他者を招き入れながらも、自身のテリトリーを保ちご機嫌に生きていく人たちだと思っている。皆人それぞれがカフェやバーという自分の得意分野で自分だけのユートピアを組み立てている。そこで僕は決めた。

「コーヒーを頼まない世界に住む大人になろう」

コーヒーそれ自体が大人なのではない。ここに誤解があった。数ある飲み物の中でコーヒーを選んで嗜むその世界観こそが大人なのだ。

ならば、コーヒーを頼まないという世界観で過ごすのも大いにアリなわけだ。それを貫けられれば、僕の人生にも一貫したブランドが生まれるわけだ。

 

決めた。僕は絶対にコーヒーを頼まない。

 

決意をしてから数日、決戦の日はすぐにやってきた。夕方にちょっと時間が空いてしまったので、カフェで時間を潰す。

いざ入店。木目調の内装と散りばめられたアンティークが、素朴ながらも渋い味わいを醸し出すカフェであった。来客も皆、落ち着きを伴った「大人」だらけであった。

僕は彼らのような大人になれないし、ならない。そう心の中で唱えながら店員さんを呼ぶ。

 

「ご注文はいかがいたしましょうか?当店オリジナルのコーヒーがオススメになっております」

「あ、じゃあコーヒーで」

今、その痛みは自分だけのもの

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夕立が降った後の、街を丸ごと洗った匂いが満ち始める時間。日常の生活においてもそういった時間があるように思う。雨が全てを拭い去り舞い上がった空気の粒が光と輪郭を伴って空の中で大きく弾けるとき、頬には清新な風が吹きつける。まるで街全体に風穴を開けてしまったように。

残念と言うべきか喜ぶべきか、衝撃的で情動的な夕立が人生においては何回もやってくるもので、それは到底予見できなくて、カメラにも収められるものではない。10年後には忘れ去ってしまうような、そうした風穴が開く瞬間が、変化と呼ばれる時なのかもしれない。

どうしたって出会いと別れが繰り返される人生で気に病んでしまうのは、失ったものと得てしまったものを天秤にかけたときのその傾き方であり、どっちに傾きすぎても憂いは尽きない。

何が自分の中で事件になるかは自分の心の中の天候状態で変わってくるものだし、同じ雨でも恵みにも災いにもなる。獲得と喪失、どちらかに傾いたら勝ち/負けなのではなく、常にバランスを崩すことを恐れるのが人間の心の中の天秤なのだ。常に両者は裏表の関係であり、何かを犠牲にすることで初めて得られるものがあるならば、天秤のバランスは保たれる。こう考えると喪失もネガティブな意味ばかりを持つものではないのかもしれない。裏を返せば、何かを得ることは何かを手放すことに他ならないのかもしれない。

 

「今の悩みも数年後からしたら綺麗さっぱり忘れてしまっているよ、現に数年前の自分の悩みなんて忘れてしまっただろう?」という類の言葉をよく聞く。紛れもない事実だと思うし、悩みに対する一つの乗り越え方であるように思う。

けれども、今の私からしたら今の悩みは何よりも重大なことであるし、後になったら忘れてしまうからという考え方は、後になったから言える話なのであって、今の私にとってはひどく辛く思えるのだということが忘れられてはいけない。不確定な未来から現在を眼差す想定をすることで、現在の自分の感性を意図的に歪めてしまうのはとても危険であると思う。例えば、自分が火傷をしてしまっても「未来には治ってるから」とその傷を放置するのと同じだ。

先日、こんなエッセイを書いた。人生において起きる様々な物事を記述するにあたって、完了形と進行形の二つの形式があり、進行形が覇権を握りすぎていることに対する警鐘を鳴らし、完了形を守り続けなければならないといった趣旨のものである(夜間移動と実況中継 - ノートの端っこ、ひこうき雲)。

今回の場合で言うと、後から当時の苦しみを振り返る態度が完了形で、今の自分の苦しみを真正面から受け止める態度が進行形だと言える。

私がこのエッセイを書いた動機は今回とは異なる。到底瞬間的なスパンでは捉えられないような重大な行為(たとえば進路に関すること)や社会問題について考える際に、あまりにもその場限りで感じた「印象」だけで所感を記してしまうのは、後から振り返る姿勢を失わせて視野が狭くなってしまうという危惧があったからである。

今回のように、私的な領域における痛みについては話が変わってくる。自分の悩みに対して舵を取るべきなのは今の自分なのであって、未来の自分の完了的視点ではないはずだ。

あなたが持っている痛みはあなただけのものだし、誰か(あるいは俯瞰している自分)が持っている尺度で事の深刻さを測るものではない。

 

天秤の話に戻ると、確かに何かを得ることと失うことはバランスを保ち続けようとするものだけど、両者は同時に起こるとは限らない。むしろかなり時間を置いてから起こることの方が多い。

様々な苦しみや痛みが結果として何か気づきをもたらしてくれるにしても、そこにはタイムラグがあり、下手したら数年以上かかるものである。この間の数年間は、自分の心の中の天秤がずっと喪失の方に傾き続けているのだ。

自分が今直面している痛みの「解釈」は、天秤が均衡を保っているか余裕があるときに行えばいい。何も今の自分の感受性まで犠牲にして、未来の自分に解釈を託す必要はないのだと思う。

夕立の後には必ず晴れ間がやってくる。そこでかかる虹はとても綺麗だし、そうした虹に思いを馳せることはとても素敵なことだと思うけど、だからといって今自分に降りかかっている雨から自分を守ることが蔑ろにされるべきではないと思う。

今、自分に降りかかっている雨がどういう意味を持つのか、雨に打たれながら考えなくたっていい。まずは傘を差したり大切な人の家でゆっくりお茶でも飲んだりすることの方が優先されるべきだと思うし、雨の間くらいゴロゴロしてたって良いんじゃねえかなと思う。

逆に言えば、ずっと晴れ間が続いているときは、雨に打たれている誰かに差し出せるような傘や、いつでもその人が帰ってこれるような家や、冷えた体を癒す温かいお茶を用意できたらもっといいなと思う。天秤は均衡を保とうとするから、何かを得ることは何かを手放すことに他ならないかもしれないけれど、そしていつか豪雨が自分を叩きつけるかもしれないけれど、晴れているうちから手放さなくたって、天秤は怒りはしないんだから。

 

今回も綺麗事を書き続けているとは思っている。俺のブログは概してそういうスタンスだということはもう分かっていただいていると思う。でも、綺麗事だからこそ都合良く遠慮なく使って欲しいと本気で思っているし、こうして言葉で綺麗事を残し続けることの意味はそこにある。俺は俺なりの傘を揃えているのだ。それは使い古されたビニール傘かもしれないけど、気に入ってもらえないかもしれないけど、ちゃんと雨を防いでくれる自信は、ないわけじゃない。

 

痛みにも悩みにも貴賤はない。周りにどれだけ陳腐に見えようと、苦しむ本人にはそれが世界で一番重大な悩みだ。救急車で病院に担ぎ込まれるような重病人が近くにいても、自分が指を切ったことが一番痛くて辛い、それが人間だ。

レインツリーの国有川浩

ハッシュタグと共犯者

朝ドラを見ているのだが、流石に伝統ある朝ドラと言うべきか、ツイッター上では番組に対する感想が多く飛び交っていて賛否両論が巻き起こることも多い。毎日少しずつストーリーが進むという放映形式も手伝って、朝ドラはたくさんの人々の日常の中にすっかり溶け込んでいるなと感じる。僕自身も先週の悲しい展開によって若干日常生活にも支障を来すくらい落ち込んでしまったものだ。

 

そして、いつから始まったのかは分からないが、朝ドラには「アンチ用」のハッシュタグがある。朝ドラのタイトルを少しもじったものであることがほとんどで、そのハッシュタグツイッターを検索すると、脚本の粗や出演者に対する不平不満が陳列されている様を見ることが出来る。

この事実だけでも割と地獄を感じるが、「ファンとアンチの住み分けができているからいいんじゃねえの」という意見もあると思う。たしかに、純粋にドラマを楽しんでいるファンに向けて誹謗中傷を投げかけるのは論外であり、そうした事態を未然に防いでいるという面はある。ただ、住み分けしているからこそ起きる問題もあって、ツイッターという場はその問題を特に深刻化させやすい環境であるように感じる。

 

ファンとアンチの間で一度区分けされたら、アンチの側は「何を言っても許されるのだ」と感じるようになり、そこは「無法地帯」と化す。アンチのハッシュタグを見てみれば分かるが、批判と悪口を一緒くたにしている人が非常に多く、特に出演者に対するただの誹謗中傷でしかないものも多く見られる。検索でしょっちゅう出てくるアカウントのツイートを見ると、毎日朝ドラへの悪口に尋常じゃないくらいのツイート数を割いているものもあって、一体その執念はどこからやってくるのだろうか、と率直に言って恐怖を感じるものもある。逆にもうめちゃくちゃこのドラマのファンなんじゃないか、と理解しないと説明がつかないくらいの執念。

 

先述した通り、日常に浸透している朝ドラは特にハッシュタグ地獄の標的になりやすいのである。ハッシュタグという機能は時にユーザー間の分断を引き起こし、その分断が各人の視野を狭め、無自覚の共犯者を増やしていく。

少し立ち止まって冷静に考えればあまり大声で言うのは憚られるような言葉を、溝が広がったタイムラインでは平気で叫ぶことが出来る。俳優や女優への悪口が、どうして本人に届くわけがないと高を括れるのか、私には不思議で仕方ない。勿論わざとやってるのだとしたらよりタチが悪い。

 

もともと、ツイッターで繰り広げられている世界はめちゃくちゃ狭い世界なのだということは常に意識しておく必要がある。気に入らなければミュートもブロックもできるわけで、自分用にカスタマイズされた世界だということを忘れてはいけない。居心地が良いからって胡座をかける場所ではないということを忘れすぎではなかろうか。

 

所詮独り言の溜まり場ではあるものの、独り言にも収まるべくして収まる場所があるわけで、それを取り違えてはいけない。取り留めもない日常の戯言も、社会への物申しも、実況中継も、逆張りも、惚気も、流行りのものを叩くのも、自己顕示を叩くのも、飼い慣らしきれない自己顕示欲の産物であり、ユーザーは産み落とされた大量の断片的なテキストと上手く折り合いをつけながら、自分のスタンスを絶えず問い続けなければならない。「自分の言葉」を残し続けているという意識を持たなければならない。ハッシュタグの濁流の中で何を言ってもバレやしないよ、という「自分の言葉」への小さな怠慢が、取り返しのつかない事態への引き金となっている。

 

みんなもやっているからOKではない。その「みんな」がどれだけ限られた人たちで構成されているのかを、ハッシュタグの世界で問い直さなければ、共犯者は増えていく一方である。

自分の攻撃性にもっと自覚を持てばいいのにと思うばかりだが、ツイッターはそれを目隠ししやすいのであろう。どうすればいいのやら。とりあえず、ツイートはあんたの呼吸じゃないよとだけ言っておきたい。