ノートの端っこ、ひこうき雲

ひと夏の思い出、には留まらせたくない。

僕もコーヒーが飲めたい

コーヒーが飲めるってズルいよな。なんでってなんかカッコいいじゃないですか。

例えばカフェに入って優雅に読書をするというわけのわからないことを僕も年に3,4回するわけだけど、そこでコーヒー頼んでみるのね。だけど本当に飲めねえんだわ。コーヒー好きな人には悪いんだけど、よっ友同士の関係の希薄さをお湯にぶち込んでその上澄みだけ取りましたみたいな味がするわけ。つまり無。ドーナツの穴よりも空虚な世界がそこには広がる。

 

ズルいよな。僕はカルピスが飲みたいのに置いてねえんだよカフェにカルピスは。僕はカルピスが好きです。だからレジ前でいつも硬直しちまうわけ。ああいうとこで働いている人ってなんであんなに優しい眼差しを向けてくるんですかね。ほんとうにすごい。

銅像と化した成人男性を優しく見つめる店員さんと対峙すると、自意識も容易に瓦解し始めるの。羞恥心に襲われるわけさ。レジの前で「カルピス」って裏声で言えるくらいのユーモアはないし。だから結局一番安いコーヒーを頼む。

 

僕にも小学生という時代が実はあったんだけど、小学生の頃に初めてコーヒー飲んだ時に「あっこれ今飲んじゃあかんやつ」ってなんとなく悟った。なんとなく、オトナの味っていうか。大人になってしまえば飲めるようになるだろうって10年後の僕に託したわけ。

だけど歳を無駄に重ねていく一方で、未だに僕はカルピスが一番好きだし、コーヒーは一向に飲めるようにならない。

 

そして気づく。あの頃は大人に見えていた大学生も実際は大人の皮を被った子どもだったということに。あまりにも真理だね。結局思春期あたりに好きだった漫画やアニメや音楽って今でもずっと好きじゃないですか。

好きになれないのはあの時代ノートに書き殴った数多のポエムくらいだよ。今度見せてあげようか。今と大して変わんないけど、尖ってて最高だよ。みんなも見せてよ。

 

それはともかく、大学生ってなんか急に大人みたいなことするじゃないですか。いや3年前は制服着てスキップしてたじゃないですかみたいな人が急にあらゆる街のカフェだったりバーだったりパンケーキがおいしいお店だったりそういうものに精通してたり、ビリヤードやダーツに興じたりするじゃないですか。なんですか?いつの間に「大人」をインストールしたんですか?

 

そんでもっておびただしい数のハッシュタグを付けて拡散する。で、そのハッシュタグ一つ取ってみると「朝からcafé」とか書いてあるわけ。ただの来店時間の報告なのにどうしてこうも洒落て見える?魔法か?

朝からカフェに行ったということそれ自体がブランドみたいになっているわけ。ただ朝からカフェに行ってるだけなのに。なんだ?俺も朝から納豆食べたら「朝から納豆」ってストーリーに投稿すればいいのか?

 

いわば、大人さの殴り合いだ。奴らは本気だ。本気で自分の人生をブランディングしている。

 

「大人」とは、自分の世界を築き、時に他者を招き入れながらも、自身のテリトリーを保ちご機嫌に生きていく人たちだと思っている。皆人それぞれがカフェやバーという自分の得意分野で自分だけのユートピアを組み立てている。そこで僕は決めた。

「コーヒーを頼まない世界に住む大人になろう」

コーヒーそれ自体が大人なのではない。ここに誤解があった。数ある飲み物の中でコーヒーを選んで嗜むその世界観こそが大人なのだ。

ならば、コーヒーを頼まないという世界観で過ごすのも大いにアリなわけだ。それを貫けられれば、僕の人生にも一貫したブランドが生まれるわけだ。

 

決めた。僕は絶対にコーヒーを頼まない。

 

決意をしてから数日、決戦の日はすぐにやってきた。夕方にちょっと時間が空いてしまったので、カフェで時間を潰す。

いざ入店。木目調の内装と散りばめられたアンティークが、素朴ながらも渋い味わいを醸し出すカフェであった。来客も皆、落ち着きを伴った「大人」だらけであった。

僕は彼らのような大人になれないし、ならない。そう心の中で唱えながら店員さんを呼ぶ。

 

「ご注文はいかがいたしましょうか?当店オリジナルのコーヒーがオススメになっております」

「あ、じゃあコーヒーで」

今、その痛みは自分だけのもの

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夕立が降った後の、街を丸ごと洗った匂いが満ち始める時間。日常の生活においてもそういった時間があるように思う。雨が全てを拭い去り舞い上がった空気の粒が光と輪郭を伴って空の中で大きく弾けるとき、頬には清新な風が吹きつける。まるで街全体に風穴を開けてしまったように。

残念と言うべきか喜ぶべきか、衝撃的で情動的な夕立が人生においては何回もやってくるもので、それは到底予見できなくて、カメラにも収められるものではない。10年後には忘れ去ってしまうような、そうした風穴が開く瞬間が、変化と呼ばれる時なのかもしれない。

どうしたって出会いと別れが繰り返される人生で気に病んでしまうのは、失ったものと得てしまったものを天秤にかけたときのその傾き方であり、どっちに傾きすぎても憂いは尽きない。

何が自分の中で事件になるかは自分の心の中の天候状態で変わってくるものだし、同じ雨でも恵みにも災いにもなる。獲得と喪失、どちらかに傾いたら勝ち/負けなのではなく、常にバランスを崩すことを恐れるのが人間の心の中の天秤なのだ。常に両者は裏表の関係であり、何かを犠牲にすることで初めて得られるものがあるならば、天秤のバランスは保たれる。こう考えると喪失もネガティブな意味ばかりを持つものではないのかもしれない。裏を返せば、何かを得ることは何かを手放すことに他ならないのかもしれない。

 

「今の悩みも数年後からしたら綺麗さっぱり忘れてしまっているよ、現に数年前の自分の悩みなんて忘れてしまっただろう?」という類の言葉をよく聞く。紛れもない事実だと思うし、悩みに対する一つの乗り越え方であるように思う。

けれども、今の私からしたら今の悩みは何よりも重大なことであるし、後になったら忘れてしまうからという考え方は、後になったから言える話なのであって、今の私にとってはひどく辛く思えるのだということが忘れられてはいけない。不確定な未来から現在を眼差す想定をすることで、現在の自分の感性を意図的に歪めてしまうのはとても危険であると思う。例えば、自分が火傷をしてしまっても「未来には治ってるから」とその傷を放置するのと同じだ。

先日、こんなエッセイを書いた。人生において起きる様々な物事を記述するにあたって、完了形と進行形の二つの形式があり、進行形が覇権を握りすぎていることに対する警鐘を鳴らし、完了形を守り続けなければならないといった趣旨のものである(夜間移動と実況中継 - ノートの端っこ、ひこうき雲)。

今回の場合で言うと、後から当時の苦しみを振り返る態度が完了形で、今の自分の苦しみを真正面から受け止める態度が進行形だと言える。

私がこのエッセイを書いた動機は今回とは異なる。到底瞬間的なスパンでは捉えられないような重大な行為(たとえば進路に関すること)や社会問題について考える際に、あまりにもその場限りで感じた「印象」だけで所感を記してしまうのは、後から振り返る姿勢を失わせて視野が狭くなってしまうという危惧があったからである。

今回のように、私的な領域における痛みについては話が変わってくる。自分の悩みに対して舵を取るべきなのは今の自分なのであって、未来の自分の完了的視点ではないはずだ。

あなたが持っている痛みはあなただけのものだし、誰か(あるいは俯瞰している自分)が持っている尺度で事の深刻さを測るものではない。

 

天秤の話に戻ると、確かに何かを得ることと失うことはバランスを保ち続けようとするものだけど、両者は同時に起こるとは限らない。むしろかなり時間を置いてから起こることの方が多い。

様々な苦しみや痛みが結果として何か気づきをもたらしてくれるにしても、そこにはタイムラグがあり、下手したら数年以上かかるものである。この間の数年間は、自分の心の中の天秤がずっと喪失の方に傾き続けているのだ。

自分が今直面している痛みの「解釈」は、天秤が均衡を保っているか余裕があるときに行えばいい。何も今の自分の感受性まで犠牲にして、未来の自分に解釈を託す必要はないのだと思う。

夕立の後には必ず晴れ間がやってくる。そこでかかる虹はとても綺麗だし、そうした虹に思いを馳せることはとても素敵なことだと思うけど、だからといって今自分に降りかかっている雨から自分を守ることが蔑ろにされるべきではないと思う。

今、自分に降りかかっている雨がどういう意味を持つのか、雨に打たれながら考えなくたっていい。まずは傘を差したり大切な人の家でゆっくりお茶でも飲んだりすることの方が優先されるべきだと思うし、雨の間くらいゴロゴロしてたって良いんじゃねえかなと思う。

逆に言えば、ずっと晴れ間が続いているときは、雨に打たれている誰かに差し出せるような傘や、いつでもその人が帰ってこれるような家や、冷えた体を癒す温かいお茶を用意できたらもっといいなと思う。天秤は均衡を保とうとするから、何かを得ることは何かを手放すことに他ならないかもしれないけれど、そしていつか豪雨が自分を叩きつけるかもしれないけれど、晴れているうちから手放さなくたって、天秤は怒りはしないんだから。

 

今回も綺麗事を書き続けているとは思っている。俺のブログは概してそういうスタンスだということはもう分かっていただいていると思う。でも、綺麗事だからこそ都合良く遠慮なく使って欲しいと本気で思っているし、こうして言葉で綺麗事を残し続けることの意味はそこにある。俺は俺なりの傘を揃えているのだ。それは使い古されたビニール傘かもしれないけど、気に入ってもらえないかもしれないけど、ちゃんと雨を防いでくれる自信は、ないわけじゃない。

 

痛みにも悩みにも貴賤はない。周りにどれだけ陳腐に見えようと、苦しむ本人にはそれが世界で一番重大な悩みだ。救急車で病院に担ぎ込まれるような重病人が近くにいても、自分が指を切ったことが一番痛くて辛い、それが人間だ。

レインツリーの国有川浩

ハッシュタグと共犯者

朝ドラを見ているのだが、流石に伝統ある朝ドラと言うべきか、ツイッター上では番組に対する感想が多く飛び交っていて賛否両論が巻き起こることも多い。毎日少しずつストーリーが進むという放映形式も手伝って、朝ドラはたくさんの人々の日常の中にすっかり溶け込んでいるなと感じる。僕自身も先週の悲しい展開によって若干日常生活にも支障を来すくらい落ち込んでしまったものだ。

 

そして、いつから始まったのかは分からないが、朝ドラには「アンチ用」のハッシュタグがある。朝ドラのタイトルを少しもじったものであることがほとんどで、そのハッシュタグツイッターを検索すると、脚本の粗や出演者に対する不平不満が陳列されている様を見ることが出来る。

この事実だけでも割と地獄を感じるが、「ファンとアンチの住み分けができているからいいんじゃねえの」という意見もあると思う。たしかに、純粋にドラマを楽しんでいるファンに向けて誹謗中傷を投げかけるのは論外であり、そうした事態を未然に防いでいるという面はある。ただ、住み分けしているからこそ起きる問題もあって、ツイッターという場はその問題を特に深刻化させやすい環境であるように感じる。

 

ファンとアンチの間で一度区分けされたら、アンチの側は「何を言っても許されるのだ」と感じるようになり、そこは「無法地帯」と化す。アンチのハッシュタグを見てみれば分かるが、批判と悪口を一緒くたにしている人が非常に多く、特に出演者に対するただの誹謗中傷でしかないものも多く見られる。検索でしょっちゅう出てくるアカウントのツイートを見ると、毎日朝ドラへの悪口に尋常じゃないくらいのツイート数を割いているものもあって、一体その執念はどこからやってくるのだろうか、と率直に言って恐怖を感じるものもある。逆にもうめちゃくちゃこのドラマのファンなんじゃないか、と理解しないと説明がつかないくらいの執念。

 

先述した通り、日常に浸透している朝ドラは特にハッシュタグ地獄の標的になりやすいのである。ハッシュタグという機能は時にユーザー間の分断を引き起こし、その分断が各人の視野を狭め、無自覚の共犯者を増やしていく。

少し立ち止まって冷静に考えればあまり大声で言うのは憚られるような言葉を、溝が広がったタイムラインでは平気で叫ぶことが出来る。俳優や女優への悪口が、どうして本人に届くわけがないと高を括れるのか、私には不思議で仕方ない。勿論わざとやってるのだとしたらよりタチが悪い。

 

もともと、ツイッターで繰り広げられている世界はめちゃくちゃ狭い世界なのだということは常に意識しておく必要がある。気に入らなければミュートもブロックもできるわけで、自分用にカスタマイズされた世界だということを忘れてはいけない。居心地が良いからって胡座をかける場所ではないということを忘れすぎではなかろうか。

 

所詮独り言の溜まり場ではあるものの、独り言にも収まるべくして収まる場所があるわけで、それを取り違えてはいけない。取り留めもない日常の戯言も、社会への物申しも、実況中継も、逆張りも、惚気も、流行りのものを叩くのも、自己顕示を叩くのも、飼い慣らしきれない自己顕示欲の産物であり、ユーザーは産み落とされた大量の断片的なテキストと上手く折り合いをつけながら、自分のスタンスを絶えず問い続けなければならない。「自分の言葉」を残し続けているという意識を持たなければならない。ハッシュタグの濁流の中で何を言ってもバレやしないよ、という「自分の言葉」への小さな怠慢が、取り返しのつかない事態への引き金となっている。

 

みんなもやっているからOKではない。その「みんな」がどれだけ限られた人たちで構成されているのかを、ハッシュタグの世界で問い直さなければ、共犯者は増えていく一方である。

自分の攻撃性にもっと自覚を持てばいいのにと思うばかりだが、ツイッターはそれを目隠ししやすいのであろう。どうすればいいのやら。とりあえず、ツイートはあんたの呼吸じゃないよとだけ言っておきたい。

Slumber

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この頃、現実的な夢ばかり見る。現実と夢の区別がつけられなくなってくる。

ヒューマンドラマを見る。昔からファンタジーよりも日常系が好きだったけど、歳をとるにつれてめちゃめちゃリアルな話を現実の自分となぞるのが好きになっていく。こんな愛を捧げられたらよかったなと思いながら、常に画面越しの理想から遠い自分を意識する。

現実とフィクションの狭間は、ちょうど生と死の間を揺らめくように、感情の揺さぶりから逃れられない。せめて夢の中くらい、等身大の自分でいたいんだけどな。「大切」の数が増えていくにつれて、色々なものを大切にできなくなっていく自分の限界と折り合いをつけていかなきゃいけないんだ。大人になってしまう。

「言いたいことがだんだん増えて、言えないことが沢山増えた」

夜間移動と実況中継

f:id:SouthernWine29:20190907175114j:image個人的に考え事をするのに一番最適なタイミングは、深夜の照明が落とされた交通機関の中である。つまり夜行バスや飛行機が一番良い。比較的どこでも寝られる体質の私は、寝ている間に連れて帰ってくれる上に価格が安い夜行バスという移動手段を重宝している。もともと夜という時間は考え事には向いているが、夜の自室で考え事をしているとどうしてもスマホや本にすぐ手を伸ばしてしまって、自分の言葉を手繰り寄せることを怠ってしまう。夜行バスや飛行機は周りの人が寝ているため、煌々とスマホを照らしたり読書灯を点けたりすると彼らの睡眠の邪魔になる。だから、音楽を聴くか自分の言葉を紡ぎ出すくらいしかやることがなくなる。

「自分と向き合う」というフレーズは聞き飽きているのであまり使いたくはないのだけど、感覚としてはそれに近い。考えることは早朝帰宅してから何を食べようかというくだらないことから自分の人生を省みることなど多種多様である。ここでは主に後者について話したいわけだが、ホールケーキを切り取って食べるように、人生のこれまでのタイムラインに切れ目を入れて取り出してみると、当時は気づけなかったタイムラインに散りばめられた布石や機微に想いを馳せることができる。この多くは感情を伴いながら見ていかなければならず、時にその感情の針は大きく振れることもあるからなかなか難しい。

例えば小学校時代を切り取って取り出して見つめたときに、どうして当時の自分はあんな残酷な言動が出来たのだろうと罪悪感が押し寄せてくると同時に、あんなことをしてしまったけれどしかしもう時効だろう、と勝手に自分の中で物語を完結させようとする自分の脆弱さにも取り囲まれる。思い出や後悔に付随してくる感情と付き合っていくことは本当に難しいけれど、せめて自分くらいは思い出を肯定してあげたいという圧倒的な自己中心性を基に動いている。

もちろん肯定できないことの方が圧倒的に多く、誰かに肯定の言葉を差し出すことは出来ても自分のことになると難しいわけで、こういうときに安易に誰かに縋って肯定してもらうことはもう辞めたいのだけれど、私は甘やかされまくっている。早く自分の機嫌くらい自分で取れるようになりたいものだ。

 

夜寝る前に一日を振り返って反省タイムに入るという人は結構いるらしい。私は基本的に意図して寝ることが出来ない(俗に言う寝落ちの王様なのだ)ので、夜間移動の時くらいしか振り返りの機会を設けていない。寝るときくらいは何も考えないでいたいというのも大きい。

この人はちゃんと自分を客観視していてすごいなあと私が思う人は、こうした振り返りの時間をしっかりと過ごしているのかもしれない。だからこそ反省を活かして未来をしっかりと見つめている。惰性で過去ばかり見ている私とは根本的に違うのである。

最近、自分の周りのあらゆる事象が続々と伏線を回収し始めていると思っていたが、私が張り巡らされた伏線に気づくチャンスを逃し続けているだけなのだと気づいた。最近の自己嫌悪の淵源は大体この辺りにあるように思える。「強く」生きることは無理でも、丁寧に生きていくことはまだ改善の余地ありと言った感じ。

 

話が少し変わるけれど、すぐに自分が今直面している出来事をリアルタイムで伝えることが出来るようになった現代においては、自分が送っていく人生を切り取るスパンが、頻繁に更新されるインスタのストーリーのようにどんどん細かくなっていく。時が経ってから、ある程度の幅を持った「生きてきた時間」を見つめ直す機会が減っているように感じる。肯定が欲しければ即座に肯定を貰うことも容易くなって、より瞬間瞬間に生きている自覚がある。人生の中の叙述において、完了形よりも進行形が覇権を握っている。

しかし、夜間の移動によってリアルタイムで自分の人生を実況中継するスマホという手段を遮断され、他人の実況中継を見る手段もなくし、完了形で自分の人生を綴ってみたときに初めて、自分が見落としてきたことの多さに気づかされる。この点で、完了形は進行形に取って代わられることはないと思わされる。

時流の波に乗っていくことは大切ではあるけれど、進行形で記す時に用いがちな言葉やスキーマは分かりやすく目立っている分、時に暴力的であり視野狭窄である。より俯瞰して物事を見ないと掴みきれないことだらけだ。俯瞰をやり過ぎるとそれはそれで「怖い」と言われるのだろうけど。進行形を尽くした力動的なライブ感の強い記述との兼ね合いが難しい。

このバランスを取っていくために、完了形が適切だと思える物事については、これからも完了形のままで記せたら良いなと思っている。噛み砕いて言えば、特に真剣な物事に対する所感については熟慮の末に投下する方が傷は少ないと私は思うし、何でもかんでも中継すれば良いってもんじゃないよなという話である。

夏の終わりと31×6

f:id:SouthernWine29:20190826121215j:imageあの雲が何に見えるか喩えてよ、お気の済むまで聞いているから

夕立が変えることなどない未来  奪い去るには足りないわたし

灰色が傷つけてきた雲の下  焦げついた陽と昼の葬列

どうしたって近づくことはない だから巻き込むことしかできないの、風

優しさも悪意も等しくかき混ぜて  出来た匂いを雨と呼んでる

缶ビール 父の写真を飾り付け 生きてる証に変えてゆける?

Fantôme

生と死の狭間をたゆたっていくように、境界をぼかしていくグラデーションのような陽射しの夏の日、迎え火のようにゆらゆらと揺れる街燈が墓標のごとく並ぶ午前3時。生き抜いた蝉の残骸が散らばっていて、蜃気楼に近い生命のうねりが押し寄せてくる。

半袖のワイシャツの袖を折るのが癖だった人。折りたたんだ清新な白さが、涼しく吹き付ける風が、彼女を優しく包み込んだ。

あまりに言葉が足りなさすぎる、最近のゆらゆらと続いていく日常に併走していく形で、あれよあれよと気持ちを結びつけたりするのだけど、どうにも矮小なものに見えてきて進まない。端的に言えば、自己肯定感が低い。