正しさがガラクタになるとき
このブログもおかげさまで一年くらい書いているが、書き始めた頃の記事にこういうものがある。
要約すると「理性が感性の領域へと侵食する危険性」について書いたもので、今読み返してみると初っ端から自分の思想ぶっ飛ばしてるなと思いながら、結局一年経っても根幹となる考え方は変わりようがなかったし、最近の世間の動向を見ていると、こちらもどうにも何も変わっちゃいないと思わざるをえない。
世紀末だなと思える事件やネット上での騒動が多発している。旧態依然が見直され、因習が絶えず問い直される時代になっている。各々がそれぞれ必要だと思っている情報が「シェア」されることで氾濫が止まらなくなっている。
SNSという便利な技術は「自分なりの理性」を振りかざして、素材のままでパイ投げのように相手の顔に投げつけることを容易くした。そこでは、相手に「届けよう」とする配慮を重ねることを丸ごと無視してしまった「毒舌」という名の怠惰がまかり通っている。画面越しに一人の人間が居るという意識を丸ごと欠いてしまった言葉が飛び交っている。
まとまった文章を書く人は俺を含め大概が嘘つきである。煮えたぎった感情のまま皿に放り投げたらグロテスクが過ぎるから、無理やり美味しくしようと言葉で味付けしてとりあえず人が見られるものにする。そこには幾重にも重なるラッピングが施されていて、一瞥しただけじゃ真意が見えないように加工することが出来る。
140字はラッピングには足りないのだ。あまりに暴力的過ぎるのだ。
呼吸をするように断片的な文をリリースすることで自分の思想をチラ見せすることができる。チラ見せのための手っ取り早い方法は、仮想敵を作り出して叩き潰すことである。
140字を相手の悪いところへの言及に尽くせば、自分自身を差し出さずに済む。何かを叩きのめすことでその反転像としての自分を受け取り手に読み取らせようとする。比較を連発し「敵であるそちら側」にいない自分をシーソーの軽い方みたいに上昇させる。こうした態度は「自分はそう考えていない」という否定文の連続であり、否定に否定を折り重ねた砂上の楼閣に自身の虚像を浮かび上がらせる。
説明を放棄することは、コスパの良い怠惰である。ただの怠惰であるはずなのに、あえて言葉を尽くさないままでいることで、大きなものがそのベールの裏に隠れているかのように振る舞うことができる。性質の悪いことに、意味深なガラクタは大量に置き土産にすることができる。自分も答えがわかってないのに「これは宿題ね」と言い放ち、ぬくぬくと自分の世界に閉じこもる。周りが勝手に宿題に対して色々と回答してくれる。こうしてちょっとずつ怠惰の共犯者を増やす。
世界のあらゆる出来事に言葉が足りていないと感じる。足りていないとは文字数の意ではなく、ちゃんと受け取り手を想定した言葉の数である。概してそれは後出しジャンケンでは満たされない。毒舌や冗談で済まされるならその舌に用はないからさっさと毒を塗ってしまえ。
短さは正しさと等価ではない。公式に落とし込めない事象の数々をより短文で言い表すたびにこぼれ落ちた例外の数々への想像力がどんどん腐敗していく。短文はわかりやすい。刺さりやすい。だから傷つけやすい。
そして正しさが自己修正能力を失ったとき、糾弾の照準が不適切に拡大される。到底理性を注ぐべきではない他人の感性の領域に立ち入り始める。自分の毒舌が自分を気持ちよくさせる以上の意味があるのかを考えてから言葉を綴らない限り、共犯者と被害者は増える一方だ。
こうした自己チェックが面倒ならば、もう自分を主語にした肯定文を書き続ければいい。「何が好きなのか」を並べるだけでもその人の価値観の体系は浮かび上がってくるはずなのに、どうして否定文を並べたり比較したりすることでしか自意識を解放できないのだろうか。反転像ばかりでは自身の像が歪んで見えてしまうことになぜ気づかないのだろうか。
肯定を積み上げたい。
まぎれもない自分を主語にしただけで、それは究極に輝かしい。述語が普通だっていい。述語の特別さで優劣をつけるのはもうやめにしよう。
引退
このような場を設けていただき、ありがとうございます。なかなかこうしてみんなの前で語る場面もないので、僕はHASCのみんなが大好きだということを伝えたいです。
広告とは話がズレるのですが、HASCの人たちは共感力と包容力、そして感受性が豊かな人が多いなと思っていました。
LINEで誰かがノートを作ったときにスタンプを押してくれたりとか、僕の誕生日に個チャで皆がそれぞれLINEくれたりとか、そういう細かいところが好きです。後から思い出して幸せを見つけるのってそういう細かいところだったりしませんか。
誰かがそれぞれの時間を費やして何かに向き合っているということに意識を注げることってとても大切だと思います。だからこそ遠い未来だけじゃなくて、今、自分の身の回りに広がっているあらゆる景色の中に幸せは隠れまくっているから、そこにちゃんと感謝ができることの大切さを教わりました。
僕はジャズ研に駆り出されて度々居なかったり、役職も何もない割に部室にはのさばっていたり、傲慢な人間だったなあって思いますが、それでもこんな自分を受け入れてくれて本当にありがとうございます。
そして、ちゃんと自分が自分のままでいられることってめちゃくちゃ大切です。「変な人が多い」と言いながら誰もが受け入れられているのってとてもすごい。
広告のサークルで言うことではないかもしれないですが、最近特に「人と被るな」とか「誰も思いつかないことをしろ」という言説が溢れかえっています。
けれど僕は、特別さやオリジナリティと同じくらい、周りに合わせられることや何かを地道に続けられること、真面目に何かをこなせることも尊重されなければならないって思っています。
僕は奇抜な発想はできないし、クラゲのようにゆらゆらしていただけなんだけど、それでも居心地が良かったのってすげえなって思います。HASCの人たちはオリジナリティが溢れている上に、「普通」も同じくらい大切にしてくれます。そうした、ありのままを受け入れられる人に僕もなりたいです。
無理に特別になろうと頑張りすぎる必要はないし、ありのままでいいんだよということを教わったし、僕も誰に対してもずっとそう思い続けていきたいです。
僕の大好きなスピッツの歌詞に「幸せは途切れながらも続くのです」というものがあるのですが、この幸せとは「普通」とも言い換えることが出来ると思っていて。ずっと過ごしてきた「普通」はある日突然「普通」ではなくなって、かけがえのない日々だったということに気づきます。そのことはとても悲しいことだけど避けられない。だけど、また新たな平凡ながら輝かしい日常が必ず続きから始まるのです。
これから変化が激しい日々が続いて、普通な自分の意味がズタズタにされる時が来るのかもしれません。こんなときに傷を癒してくれるのは、そんな普通であることが出来た自分自身の思い出です。僕にとってその思い出こそがサークルの皆との日々です。
思い出は甘えるためにあるものだと思っているので、このサークルでの日々は時々思い出させてください。
過去ばっか見ていると言われても、過去も未来も現在も同じくらい大事だと思います。過去は変えられないものではあるけど、カバーを変えることはできる。過去をどう捉えるかは自由なのです。現在はそんな過去の積み重ねの上にあるから、過去を大切にすることは現在の自分の全肯定に繋がります。そう思っています。
なんだか卒業チックだけどまだまだ学生やるつもりなので遊びとかご飯とか行きましょうね。
ありがとう。またね。
インスタのストーリーを見ている人の真顔写真集を出したい
この文章は電車で書いているが、目の前に座っているおじさまがとても良い。髪の毛をガチガチに固めてサイズがぴったりのシャツを着たダンディーなおじさまが、スマホを見ながらめちゃくちゃ笑っているのがめちゃくちゃ良い。気になって仕方ない。何を見ているのかは分からないけど、とにかく楽しそうなのである。
怪しげなニヤニヤという感じではなく、声さえ出してないけど、これはもう快活な笑いなのである。俺が電車内でこんなに笑ったの中央線の軋む音が友達の声にそっくりなことに気づいてしまったときくらいだぜ。
公の場でスマホを見ながらこんなに笑っているのを久しぶりに見たけど、電車はこれくらい楽しく過ごしていいよなって思う。
一緒にいる友達がスマホの画面を見ている場面は幾度となく見てきた。その中でインスタのストーリーを見ている場面も何回も見てきた。
この画面を見ている顔がまあ、真顔なのである。
そんな真顔になる?ってくらい真顔なのである。
俺がこんなに真顔になったの、コーンフレークを入れてから牛乳がないことに気づいて水を入れたら案の定不味かったという兄貴の話を聞いた時くらいだぜ。
画面の中で繰り広げられている光景は煌びやかで、切り取られた素敵な日常のスライドショーである。見ていて笑顔になってもおかしくないくらい輝いている。
なのに、めちゃくちゃ真顔なのである。念仏でも聞いてんのかってくらい真顔なのである。
画面の中の光景とそれを観察している外の空気が全く一致していない。高低差がすごい。
何回も思っているけど、ストーリーって機能はすごい。自分しか見られないはずの景色や表情を切り取って、いとも簡単に、たくさんの人に向けて広めまくることができるのだから。
それはただの景色じゃない。何を見せて何を見せないのか、シーンの連続を切り取るという行為にその人の自意識が見え隠れする。
適切な切り取りが出来ているストーリーは本当に面白いけど、まあ見ていて真顔になってしまうのも無理ないねというのも多い。誰だか分からない人が酒で潰れているような内輪ノリや、見ていて何とも言えない気持ちになるイチャイチャは、24時間限定公開という条件が付与された瞬間、タガが外れたように垂れ流される。そのような予測不能な「私」の垂れ流しに対しては真顔で居るしかないのである。
この真顔が、僕は大好きである。人間が表情をコントロールすることを忘れた一瞬の油断が大好きである。
対面での会話やお笑いというのは「笑い」が前提となって繰り広げられる。 特に何かが起きなくても、前提が笑いなのだから表情が大きく事故ることはない。そこではたしかに「生」がある。生身の人間同士の体温が共有された歓びが見える。
ストーリーの面白さは、画面越しに流れ出てくる生に対して、こちら側がしっかりと一瞬表情をリセットした「死」を持って迎えることである。そんな一瞬死んでいる人々の真顔の写真集を作ったら、立派な文化遺産になる気がするのだ。これまで生きることしかしてこなかった人間の境地が、一瞬だけ死ぬという技術である。これこそが新時代のシンボルとなるだろう。
いまだ電車に乗っている僕の隣のおばあちゃん二人が顔を向き合わせてめちゃくちゃ喋っている。昔からの友人同士なのだろう。まだまだ生を感じている。
生と死のあわいを過ごすというのは案外日常のインスタのストーリーで達成されているのかもしれない。これは本当に世紀の大発明なのである。発明が発達しすぎて死の側に傾きすぎないように気をつけたいところだが。
生きがいと死にがい
「なんとなく死にたくなる」という感覚は、6月や梅雨時期にギラギラしている人以外誰もが経験しているものだと思う。「からあげ食べたいかも!コンビニに寄ろっかなー」くらいの感覚で「ちょっと死んでみようかな」って気持ちを抱くということが描かれた漫画がTwitterでも話題になっていた。気持ちがとてもよく分かる。
そして、どんな死に方があるんだろうと検索してみると、どれも後処理で周りに迷惑をかけてしまいそうだし、別に周りの人を悲しませたり苦しませたりするために死にたいわけではないから、「死ぬ方が面倒だな」という結論になって、とりあえず日々を生き延びている。
特段死ぬための大きな理由もドラマティックな出来事もないから死を選ばないってだけの話で、いつかからあげにレモンをかけるようなノリで死んだとしてもそこまで不思議ではない。
誤解を避けるために言うが、死ぬことを推奨したいわけではない。ただ、生きることを休止したいという感覚自体を抱くことはそれほど変なことではないと思うのだ。「死ぬなんて言うなよ」というのは真っ当な言葉だが、真っ当なだけでそれ以上のものではない。だけど、流石に親とか友人の前で死にたいを連呼するのは彼らの精神衛生上良くないのであまり褒められるものではない。
何かや誰かのために生きようという大きな生きがいもなければ、これのために死にたいという死にがいみたいなものもない。とりあえず好きなアーティストが今年の秋にアルバム出すらしいからそこまでは生きていようかなーくらいの、日々を継ぎ接ぎする感じで生きている。
できるだけ長く生きるために、できるだけ遠い未来に楽しみなイベントを置いているという節がある。こういったイベントがRPGのセーブポイントみたいに機能していて、とりあえずセーブポイントに行くまではゲームの電源を切るわけにはいかないよな、という発想になる。だから、セーブポイントを抜けた先のことを考えると、次に来るセーブポイントでゲームのデータを消してもいいんじゃないかなと思い至る。
楽しみな出来事が待ち受けている時に、その出来事が終わった後のことを考えて悲しくなってしまうのも、きっとセーブポイントを越えた後のことが不安で仕方がないからだろう。
久しぶりにゲームで遊ぶときに、前にやった中途半端なセーブデータを削除して改めて最初から始めたという経験がある人は多いのではないだろうか。これくらいのノリで人生を歩んでいきたいな、とよく思う。でも人生はリセットできないし、セーブデータは一つしか存在しないから、どれだけ中途半端なセーブデータであってもそのデータで続きを始めるしかない。
人生は前に戻れないからデータを突然消したくなるのだ。自分が戻りたいセーブポイントまで戻れるシステムだったら、どれだけの命が救われたのだろうかと思う。
現状の人生はリセットシステムがないから、取りうる手段としてはスリープモードしかない。「死ぬわけにはいかないけど生きることを休止(≠停止)したい」という感情も、こういったことに起因しているのだろうと思う。
平井堅の「ノンフィクション」という曲にこのようなフレーズが登場する。
惰性で見てたテレビ消すみたいに
生きることを時々やめたくなる
とても的確な表現だと思う。なんとなく惰性で見ていたテレビは「何もしていないこと」が是とされるものである。だが、心に余裕がないとき「何もしていないこと」が凶器になって自分の心に突き刺さり始めたとき、ふと電源を消してしまいたくなる。
「将来を考えること」や「添い遂げたい人がいること」は、持っている「生」のエネルギーがあまりにも強い。精神的な生と死の狭間を薄くぼんやりと過ごしてきた人は、押し寄せてくる「生」に対して為す術を無くしてしまう。生と死のグラデーションの中で日々を生きているのに、「白か黒かハッキリしようぜ」というギラギラした波が眼前に迫ってきたら、もう逃げ道がなくなってしまう。
ぼんやりと過ごしていくことは何も悪いことではないのに、そうさせないぞ、という圧力があまりに強すぎる。圧力をかけている側にとって、悪気はないんだろうけど。自分の人生の中にドラマを見出せた人は、きっと毎週欠かさず見るテレビ番組のように、生を積極的なものにさせるのだろう。そして他人が見せてくるドラマを見てしまうと、すごく自分が責められている気分になる。「お前は何もしてないよな」って言われている気がしてくる。
よくよく考えると、他人が惰性でテレビを見ていたとしても、その人のことを責めようなんて誰も思わない。だけどそれが自分のことになるとめちゃくちゃ自分を責めてしまうし、周りのあらゆる出来事に責められているように感じてしまう。
このブログの最初期のテーマが「理性による感情への侵食」だった。人の感性に侵入してきて理性の光を浴びせる風潮に中指を立て、自分の世界を守っている人を讃えるような、そんな文章を書いてきたつもりだ。
まだまだ、「個人の感情なんて知ったこっちゃない」がまかり通ってしまう。周りのことなんて気にせずに自分の幸せさをすぐに発信できるし、周りの動向を見やすくなって横一線を意識しやすくなった。自分なりの歪みに歪んだ曖昧な世界を肯定する機会が、確実に失われているような気がする。
「見たくないなら見なければいい」で済むならどんなに良かっただろうか。見ていないところで何が蠢いているのか気になって、神経がすり減らされることに変わりはないというのに。
見たくないけど見てしまう。当たり前だ。
見なくて済むのは、自分のドラマに満足できている人だけだし、そのことに無自覚でいられるのは、なによりも幸せなのかもしれないな。
何であろうと、惰性で続けていたゲームも、惰性で見ていたテレビも、ほんの少し先に笑えるポイントがあるのかもしれない。人生に録画機はない。だからもうちょっとだけ電源ボタンは遠くに置こうと思っている。
生きがいも死にがいもない。それでも生きていたい。100点。
あなたみたいになりたかった
自分の人生にストーリーを見出せる人
幸せを不特定多数に撒き散らしても平気でいられる人
大切な人との大切な瞬間を、ずっと野ざらしで保存しておく人
6月にギラギラしている人
自分の成功体験を金に替える人
なるったけ他人に依存できる人
自分の人生を実況中継できる人
こうなりたくはないけど、自分にはないものが羨ましかった
そして、
しんどいときに個人追撃できる人
そもそもSNSなんてやらずに済んでいた人
承認なんてされずに済む人
大切な人が全員生きている人
聞き上手だから自分のことは話さない人
人の幸せを心から祝える人
「自分の人生は自分だけのもの」として生きていきながら、結局いろんな人の心に寄り添い続けることができた人
こうなりたかったし、なれなかった
無意識の暴力は、繋がり続けている限り飛んでくる、避けられない運命。
自分にはないものを羨んでいられるうちは、自分を頑張れるのかもしれない。
その羨みが、自分を責めることにしか起因できないときは、ちゃんと休んだ方がいいのかもしれない。
自分の弱さを愛せたらいいな。
君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる
いい言葉だなと印象に残る基準として一つ考えられるのが、「逆」なことである。
前にスピッツの「8823」について書いた時も「君を不幸にできるのは宇宙でただ一人だけ」というフレーズの破壊力を紹介した。「普通」なら幸福とか幸せとか書くところを不幸って言い切ってしまう。あえて逆に書くことで、我々の常識からはみ出た余剰部分に想いを馳せざるを得ない。「幸せ」と書いてくれればすんなりと受け入れられるところを、この歌詞はそうさせてくれない。そのようなはみ出た部分の多さが言語表現の豊かさに結びつくのだと思う。
あえて逆を言うことでより切なさを際立たせるプロといえばback numberだ。「幸せ」というタイトルでありながらその歌詞の内容は、自分の好きな人には別の好きな人がいて、自分は彼の相談相手になっているというもので、「その人より私の方が先に好きになったのにな」と言っている。全然幸せな内容じゃない。
「最初からあなたの幸せしか願っていないから」というフレーズが歌詞の中に出てくるが、作詞した清水依与吏が「これは嘘である」と断言している。相手の幸せしか願っていないと清々しく言い切ることで、逆にその裏に込められた想いが熱量を持って我々に迫ってくる。好きになった人にはちょっとだけ不幸になってほしいと思う人の方が、私は仲良くなれる気がする。その是非はともかくとして。
back numberはこの他にも失恋の曲に「ハッピーエンド」と名付ける程の容赦のなさを持っている。もう少し素直になってもいいと思うぞ。
「忘れてほしい」と言うのは全然忘れて欲しくないからだろうし、「幸せです」を過度に主張してくる人は不安でいっぱい。素直になれない人は、基本的に逆の言葉しか言えないのである。
言葉の隙間からはみ出した余剰部分こそが本音であるという認識に基づけば、テキストメッセージを表面通りに受け取っていたら見えなくなるものも、おそらく沢山あるのだろう。
できれば、もらった言葉をそのままに解釈することが許されている方が、無駄に精神的リソースを割く必要もないし、誰かの呟きに被害妄想的に傷つく必要もなくなる。
言葉は意思の伝達手段でありながら、どれだけ時代を経ても不完全なもののままであるし、むしろどんどん不便さが加速している。
おそらく、そういった言葉の不便さを愛しているのが詩人だし、不完全なツールを尽くして読者を自身の世界に誘うのが物書きである。本当は根っこに相当鋭利なものを抱えていながら、人に向けてよそ行きの形に梱包したものが「文章」だ。私だって、文章を書くには何らかのきっかけが不可欠だ。
「逆」を言う、というのは不完全な言葉の使い方の一つの終着点なのかもしれない。対象の魅力を、相手への好意を言語化しようとすればするほど、手持ちの言葉の少なさという壁にぶち当たる。だから逆を言うことで、対象を描き切る方針から、余剰部分を作り出して解釈の余地を広げる方針に転換する。これは一つの発明であり、不便を愛した詩人たちの大きな功績だ。
詩人には説明責任が課されていない。不完全さを一つの意匠として用いることができる。
それはきっと、世界中に存在する小さな詩人ーー自分の身の回りの出来事に心を揺さぶられ、不完全な言葉でしか感情を表現できない状態にあるすべての人--も同様である。
説明責任から逃れた言葉を、人はしばしば「ポエム」と嘲笑する。でも、そういったポエムを吐かざるを得ない小さな詩人たちの本当の訴えに耳を傾けようとはしない。言葉は不完全なまま宙に浮かんでいる。
彼らの世界の中で吐き出さざるを得ない言葉を、もっと日常の詩歌化という形で迎えられるようにしたい。